昔話

私の記憶に有る内に、過去に有った面白い出来事や話を、綴って行きます。

広瀬淳二、本木良憲&諸岡範澄 Live at 赤坂国際芸術家センター ’82

1982年12月11日、「赤坂国際芸術家センター」という名前だけ聞くとえらく立派な建物を想像するだろうが、実際はどこかの空き教室といった所で、広瀬淳二さん、本木良憲さん、諸岡範澄さんのトリオ・インプロヴィゼイションのライヴを聴きに行った。イスクラの面々と広瀬淳二さんのお兄さん、上村二男さん(フリー・ジャズ・レコードブックを出版したヘンなおじさん)、その他少しのお客さんだけの、身内の集まりみたいな雰囲気。まあ、当時のフリーのライヴって、こんなもんだった。客が3人なんて普通だった。さて、演奏だ。

広瀬さんは今も昔もSAX吹きだ。富樫雅彦グループの長年レギュラーだったくらいの腕の持ち主。今でこそ広瀬さんはセルフメイド・ノイズ・マシーン(ガラクタって呼んでいたなあ)でも有名?だが、この頃はそのハシリの段階で、まだあのコンパクトな形にはなっていなかった。広いステージ上になんやかんやと、叩いたり、擦ったり、振り回したりして音の出そうな物をぶちまけていた。本木さんはフルートにアルト・サックスのマウスピースを付けたやつとか、ギターを演奏。この時は、後年聴かれたというか見られた、ガラクタを集めて、それを結局はしっちゃかめっちゃかににして大暴れする演奏?には向かっていなかった。諸岡さんはチェロやヴァイオリン等で、他の二人ほどには壊れていなかった。出て来た音はズラーと並べた写真で想像して下さい。

この時俺はカセット・テープに録音していたので、後日広瀬さんにコピーを渡したのですが、その後広瀬さんが自主制作したLPに、この録音が一部使われていました。そのコピー・テープを音源にして作っていました。一言言ってくれたらオリジナル・テープを渡したものを・・・。あまり音質を気にしていなかったようで・・・。

            広瀬淳二さん。

続きは「昔話 2」へ。

山崎泰弘&飯島晃 コンサート 1982年8月7日

1982年8月7日、東京都勤労福祉会館を借りて、ミュージック・リベレーション・センター・イスクラは、「パフォーミング:反核=反原発」と題した講演やコンサートを企画した。写真家の樋口健二さんの講演やフィルム上演会等の他、大ホールでは会長の小原さんが見つけて来た反体制派ロックバンドの「リアル」のパンク・ロックと、山崎泰弘さんと飯島晃さんという高柳昌行さんの「ニュー・ディレクション」のメンバーによるデュオ・インプロヴィゼイション(当時は、これもフリー・ジャズと言っていたはずだ。)のコンサートを行った。これは後日LP化する予定で、この時はエンジニアの人にも来ていただいていた。結局リリースすることもなく現在に至るのだが・・・。

元々は、高柳さんと山崎さんのデュオ・コンサートのはずだったが、高柳さんんは療養中で無理と断られ、その代役として高柳さんに指名されたのが故飯島晃さんだった。高柳&山崎デュオは幻に終わったが、飯島さんとのデュオ演奏は素晴らしかった。「これが高柳さんだったら。」なんて誰も思いはしなかった。二人の激演だった。ニュー・ディレクションの暫時投射と集団投射が交互に混ざり合ったような演奏で、今でも時々自分が客席で録音したカセット録音を聴くことが有る。オリジナルのオープン・リールは小原さん宅に今でも有るんだろうか? このコンサートの集客は散々で、たしかお金を払って来た人はたったの5人だったと記憶している。1000人は入るホールじゃなかったけ? 結構広い会場だったと記憶している。講演とかは人が集まっていたが、そこでほとんどの人はストップ・・・。今も昔もこの手の音楽って嫌われ者なんだねー。

     山崎泰弘さん(ds)&飯島晃さん(g)

ホールは3階だった。エレベーターが無いので皆で手分けをしてドラムを運んだのだが、これが重いのなんの!

この日のイベントは午後3時から9時までの長丁場だった。俺はこんなイベントは初めての体験で、結局右往左往するだけで何の役にも立っていなかった。おまけに相当かかった経費もろくに払っていないし・・・。

当時イスクラでは月間で「パフォーミング」という小紙を発行していた。

渋さ知らず 、山口県庁で盛り上がる。その影には安田君の巻 

俺が、フリー・ミュージックのライヴを初めて、たったの2、3年で、吉沢さん曰く「この世界(フリー・ミュージックの狭い狭いギョーカイ内ってこと)で、末冨のことを知らない者はいないぞ。」、レオさん曰く「アメリカでも、末冨のことはあっちこっちで話している。」とか、NYCのネッド・ローゼンバーグさんがシチリアのジャンニ・ジェビアさんに「ぜひ連絡を取れ。」と言ったりとか、俺の知らぬ間に結構名が知れ渡ったみたいだった。しかし、あの頃って、お客さんはあいかわらず少なかったが、得体の知れないエネルギーが充満していた感じがする。まあ、今となって感じることなんだが1993年前後の時期だ。俺も毎月ライヴに明け暮れていたんだが、その頃は一楽師匠自身もライヴの企画をしていた。協力していたというか、音頭を取っていたのが、山口市の酒屋さんだった。村田酒店です。このオヤジのエネルギーはハンパじゃなかった。店の倉庫?の二階でお祭り騒ぎだった。ここには一楽師匠の他、広瀬さん、佐野さん、庄子さん、山内テツさん、内橋さん、羽野さん、金さん、崔さん、井上先生、佐々木君、川端君、えっちゃん、浅見君、高木さん、向井さん等々みんな出演した感じ。そして極め付けが山口県庁内で行った(というかブチかました!)「渋さ知らズ」の公演だ。まだ今ほどの知名度は無かった頃だが、あれを丸ごと呼んでしまったこと自体凄いことだ。俺にはとてもまねは出来ない荒業!酒の会だかなんだかに出ていた助成金を使っちまったとかいう話を聞いたが、ホント?そんなこたあ~どうでもよろしい。聴かせて見させていただき感謝感謝だった。演奏場所は木材で組み上げた昔の村祭りに有ったような小屋。メンバーの名前入りののぼりがはためく中で、サン・ラも真っ青のステージが繰り広げられた。

 目の前では踊り子のおねえちゃんがヒラヒラと舞、上を見上げれば舞踏のお兄ちゃんが空中ブランコ。ノリノリの演奏なれど、ソロが回って来た者は、過激なソロをぶちかます。お客さんは「すげーアヴァンギャルド!」と、想像もしていなかった様子。俺の隣にいたおねえちゃんは、広瀬さんのソロの時、「えっ!こんなんアリ!?」なんて言っていたのを今でも思い出す。

 ところで、こんなライヴが可能になった背景には一人の男の姿が有ったのだった。安田君といって、「発見の会」という演劇の団体に所属して本を書いていた人だ。当時徳山(今の周南市)に帰っていて、休みの時はいつもカフェ・アモレスに来てくれていた常連さんだった。渋さ知らズのバンマス(ダンドリスト!)の不破さんは「発見の会」の音楽をやっていたそうで、安田君とも古い知り合いだったらしい。店に来ては色々な話をしてくれていた。突然また上京して、吉祥寺に古本屋を開いたとのことだったが、しばらく音信不通になっていた。ある日、古本屋で「渋さ知らズ」という本を発見。買って読んでいると、安田君が亡くなったという文章に出くわした。知らなかった。「発見の会」との直接の接点がなかったので、彼の死を俺に知らせてくれる人なんかいなかったのだ。俺の中では彼は最重要人物だった。ショックだった。合掌。

 

当時の写真は「写真集 3」に掲載。

佐藤允彦さんと坂井紅介さんのライヴの後の(正確には、打ち上げ後)全員集合写真(左右はカットしてありますが)。後列右から2番目が安田君です。その隣が今のカミさん。犬は「大吉」。

Wadada Leo Smith & Thomas Mapfumo~Dreams and Secretsーby 牧野はるみ

 ジンバブエは1980年4月、アフリカ54ヶ国の中では、遅れて独立した黒人政権の国である。独立前の政治情勢が、土地の音楽に大きな影響をおよぼし、少数白人政権に反対する黒人勢力の解放戦争が激化するのに伴い、伝統的なムビラ音楽、ザイールのルンバ、南アフリカのスマンジェ・マンジェに変わる新しいジンバブエ・ポップスが人々の民族意識を高める、重要な役割になっていた。

 隣国モザンビークの首都マプトに本拠地を置いた、ジンバブエの黒人解放勢力「ザヌ」党は、宣伝工作にラジオを利用し、そこで流されるジンバブエ・ポップスは、国内外で戦いを続ける黒人達に革命的なメッセージを伝えていくものであった。当時、それらの音楽をひとまとめに、チムレンガ・ミュージック(闘争の音楽)と呼び、チムレンガ・ミュージシャンとして最も人気が有ったのが、トーマス・マフーモ(マフォモと書かれる事も有る)であった。

 恥ずかしい事に、私はジャズを聞くくせに、アフリカン・ミュージックに詳しくなく、トーマスの事を知ったのも、ドン・チェリーのCDマルチクルチが初めてでした。

 トーマス・マフーモの歌は、白人に理解しがたいショナ語を多く使用していた為、当局を幻惑させ、ゲリラに戦術的な情報を伝えるなど、ジンバブエの解放に寄与した。ムビラ音楽とジンバブエ・ポップスを統合させたトーマスの成功は、後にオリバー・ムトクジやグリーン・アローズなどの優れたアーティストをジンバブエから生み出す事になった。80年代トーマス率いるグループは、ヨーロッパ・デビュー、定期的に海外ツアーを行い、日本には91年に初来日している。97年にアメリカのアノニマス・レコードと契約後、アメリカとジンバブエを行ったり来たりしていたが、政治批判的発言(音楽)のため、今も当局のブラックリストに載っていて風当りが強く、現在はアメリカのオレゴン州に家族と住んでいる。日本では、ワールド・ミュージックのファンにしか知られていないが、アフリカでは、ユッスーン・ドールなみの有名人である。

 

 さて、そんな有名人がなぜレオさんと共演する事になったのかと言いますと・・・・・。

 4年程前レオさんは、オークランドのミルズ・カレッジに招かれ、三週間講義をしたのですが、そこでの公開ワークショップに、アノニマス・レコードの代表が来ていて、(彼はドラマーで、そこでのレオさんの講義と音楽に感銘を受けた)顔見知りになり、実はジンバブエのトーマス・マフーモをプロデュースをしているのだけど、共演してみないかと、話を持ちかけられ、レオさんは二つ返事でOKしたのです。

 CDは当初、お互いの曲を持ちよって、半々に作るという事になっていたのですが、クレジットで判るように、結局、曲の殆どをレオさんが書き、その上にトーマスが歌を入れるという形で、レコーディングした様です。しかし、出来上がってみれば、やはりトーマスのネームバリューが大きいので、雑誌などでもトーマスのCDとしてまず取り上げられています。素顔のトーマスは、ちょっとぼーっとしていますが(寡黙な人に見える)話をし出すと、とてもきさくな人で、何を質問しても、うまい英語で答えてくれます。ジンバブエは12も、言葉が有るそうです。レオさんは今回のCDで、ムビラなどのアフリカの楽器を入れた曲を作れる事をとても喜んでいました。トーマスのバンドのメンバーがレオさんの曲をマスターし、N’DAと共演する事で、トーマスに新しい歌が生まれ、ジンバブエの風がアメリカにも吹き、レオさんの音楽もジンバブエで流れる事になるのは、感銘深い事です。レオさんとジンバブエ・ポップスの共演は、初めてですが、レコード「ラスタファリ」や「ヒューマン・ライツ」に続く物と考えて良いのではないかと、私は思います。ここだけの話ですが、このCDには、日本人にしか判らない秘密が有ります。CDカバーの私のトーマスに捧げた詩の題名がヒントです。よーく聴いたら、きっと判る。ではまたね。

 

                         牧野はるみ

 

参考資料  「ジンバブエの風はどちら向き」中嶋明 JETRO BOOKS

TAKE THE NEXT STEPーグレン・ホリウチの魂ー by神田稔

 あれは、1996年だったか。当時、Asian Improv Recordsの中心人物であったKen Yamadaと、ふとしたきっかけで、電子メールの交換が始まった。ハワイへ移民した日系一世を曾祖父に、ハワイ生まれの二世を祖母に持つ私は、学生時代から、アメリカ合衆国内の日系人社会やその文化に興味を抱いていた。実際、18歳の頃、生まれて初めてハワイの大叔父(私の祖母の弟)の家をひとりで訪れた時に感じたカルチャー・ショックは今でも忘れられない。

 それから数年後、京都の同志社大学で社会学を専攻していた私は、京都精華大学の片桐ユズル教授を通じて、中山容さん(同じく京都精華大学教授・英米文学)を紹介されたことが契機となり、日系アメリカ人、更にはアジア系アメリカ人の歴史や社会や文化についての関心が深まっていった。

 故、中山容教授は、シアトルの日系二世、John Okadaが書いた小説”No-NO Boy”を邦訳した(原文のリズムを生かした名訳である)人物として、また、片桐ユズル教授と二人で、ボブ・ディランの全作品の訳詩集を完成させたことで知られる英米文学者で、特に米国の「ビート詩人(Beatnik)」達による自作詩朗読運動の影響を受け、有名な「ビート詩人」達の詩を翻訳したり、また日本で朗読会を企画したりしていた。中山容さん自身も詩を書く詩人でもあった。

 このように、中山容さんの活動は大学内にとどまらず、所謂「関西フォーク」と呼ばれた、日本におけるフォークソング運動の陰の立役者のひとりだった。数年前、65歳で急逝された時には、京都と東京で「中山容さんを偲ぶ会」が開かれたが、多くの著名なフォークシンガー達が集まり、歌を歌った。

 この15年間歌手活動を停止していた伝説的な女性シンガー&ソングライターである中山ラビさんが、最近、再び歌い始めたのも、中山容さんの死がその理由のひとつだという。

 前置きが長くなった。中山容さんと私は、1980年の初め、”IJAL NEWS”という日系及びアジア系アメリカ人の創った文学作品や文化運動を紹介する小さな新聞を編集していた。IJALとはInstitute for Japanese American literatureの略称で、約百部を不定期で国内国外に無料で郵送していた。実際、当時の日本で日系やアジア系アメリカ人の文学に興味を持つ研究者は皆無で、あおういう意味では、中山容さんはこの分野のパイオニアだった。

 さて、1996年に戻ろう。京都を離れ故郷の奈良県に戻ってからは、日系やアジア系アメリカ人の文学や文化からは遠ざかっていた私だが、ある米国のジャズ雑誌の広告で長い眠りから目が覚めた。カリフォルニア州のBerkeleyにAsian Improv Recordsという、アジア系アメリカ人音楽家達が設立した独立系レコード会社があるという。早速、連絡を取り、電子メールの交換が始まった。 

 当時のAsian Improv Recordsは、Ken Yamadaの自宅を事務所として、主としてサン・フランシスコのBay Areaで活動するアジア系アメリカ人ミュージシャンの作品をLPやCDにして通信販売していた。しかし、その中に、ただひとり、LosAngeles在住のジャズ・ピアニストの名前があった。

 Glenn Horiuchi・・・それが彼の名前だった。

 Ken Yamadaから航空便で送られてきたグレン・ホリウチのLPやCDに、私は強い衝撃を受けた。その当時、日系三世の音楽といえばフュージョン・バンドのHIROSHIMAしか私は知らなかったが、グレンの創る音楽、そしてグレンの、情熱的でありながら非常に繊細でSensitiveなピアノ演奏に私は打ちのめされた。初期の三部作とも言える”NEXT STEP”、”ISSEI SPIRIT”、”MANZANAR VOICES”、そして、イタリアのSoul Note社から発売された数枚のCDには、グレン・ホリウチ自身の、若い世代の日系人としてのアイデンティティや社会的な問題意識が背後に込められていた。

 例えば、前述した日系二世作家John Okadaに捧げる曲”Blues for John Okada”でのグレンの叩きつけるようなパーカッシヴなピアノ・スタイルは誰にも真似のできないものだ。中国系アメリカ人ジャズ・ピアニストで、Asian Improv Recordsの創設者のひとりでもあるJon JangはグレンのLPの解説で「グレン・ホリウチのピアノからは、88種類の音程に調律された和太鼓が聞えてくる。」と感嘆している。

 また、太平洋戦争時の日系人強制収容所をテーマにした作品"Poston Sonata”を発表し、盟友の中国系アメリカ人サキソフォン&フルート奏者のFrancis Wong、グレンの叔母で三味線の師匠であるLillian Nakanoの三人でHoriuchi Shamisen Trioを結成。1993年にはこのトリオで、ドイツのベルリン市でのジャズ・フェスティヴァルに出演するなど、その活動の幅を広げていった。

 

 

 その後のグレンの音楽性は、楽譜に忠実なスタイル、つまり、テーマとアドリブで構成された、オーソドックスなジャズの演奏スタイルから離れ、無調の、所謂Free Jazzの世界に傾き始める。更に、前述のサックス奏者でグレンのかけがえのない親友、フランシス・ウォンの協力なサポートと、ふたりの間の深い相互理解と啓発が、グレンを新たなるジャズ音楽の地平に誘った。グレン・ホリウチが、三味線をジャズの楽器として積極的に取り入れたのもこの頃からである。

 さて、1996年の夏にサン・フランシスコを訪れた私はKen Yamada、Francis Wong そして彼らの友人で写真家のBruce Akizukiと会うことができた。しかし、旅程の関係で、Los Angelesのグレンを訪問することは出来なかった。

 その後の三年間、私の個人的な事情と体調の不調のために、私と彼らとの交流は途切れていたが、1999年、私は再び彼らに電子メールを送った。早速、フランシス・ウォンから返事が届いた。そこにはこう記されていた・・

 「ミノル。便りをありがとう。君のことはよく覚えているよ。こちらは皆元気で活動している。しかし、残念なニュースなんだが、ロサンゼルスのグレンは癌と闘病中なんだ。」

 癌。あのグレン・ホリウチが癌で病床にいるなんて!。驚いた。そして、無性に悲しかった。グレンは1955年生まれで、私よりたった一歳年上のはずだ。まだ若く、果てしない即興演奏を得意とするグレンが、現在、ピアノを弾けない状態にあるなんて・・信じられなかった。

 私はグレンと電子メールで交流した。体調の良い日には、コンピューターに向かうことができる状態だったグレンは、病院に入院せず、抗癌剤や化学療法(Chemotherapy)を拒否し、自宅で漢方薬などを服用しながら療養していた。彼の妻Ednaさんや親戚たちがグレンの看護を引き受けていた。一人息子のKenzo君の成長は、グレンの一番の楽しみであったに違いない。

 そんなグレン・ホリウチを応援するコンサートが、2000年の1月、ロサンゼルスのリトル・トーキョーにあるJapan America Theaterで開催された。私は迷わず飛行機の切符を予約した。開演前の楽屋で初めてグレンに会った。初対面だった。しかし、グレンは私の名前を口に出して微笑んでくれた。私たちは抱き合った。隣にはフランシス・ウォンも居た。これも初対面だったジョン・ジャンは、私への贈り物を持って現れた。

 グレンと関係の深いミュージシャンやダンサー達が集まったコンサートは、会場が満席となる大盛況であった。音楽だけでなく、社会運動家として、戦時日系人強制収容所の賠償請求運動に関わったグレンは、誰からも慕われる明るい性格で、リーダーとしても最高であったという。

 体調のせいで、ピアノは一曲だけしか弾かなかったが、嬉しそうに三味線を弾くグレンの姿は今でも私の脳裏に焼き付いている。

 コンサートの明くる日、グレンは私を自宅に招待してくれた。私の長年の友人でロサンゼルス在住の日本人、東繁春君(Shigeharu Higashi)の車で、Silver Lakeの近くのグレン宅を訪問した。幸い、体調がやや回復していたグレンは様々なことを語ってくれた。私は、グレンの話した内容よりも、やっとグレン・ホリウチに会えた喜びと感動で胸が一杯になった。グレンは音楽のことより、彼が続けている座禅について、また、仏教について詳しく説明してくれた。日本人だが、とても「仏教徒」とはいえない私にとって、非常に刺激的な経験だった。帰国後、私は、禅宗の有名な僧侶について書かれた英語の本と、彼が習っている「長唄」のCDを急いで送った。

 エドナさんの話では、晩年のグレンは、私の送った「長唄」のCDを繰り返し聴いていたという。私に出来ることは、CDや本を贈るだけだったが、その話を聞いて嬉しかった。

 それから四カ月。2000年の5月下旬から6月上旬にかけて、仕事でヨーロッパを旅行していた私は、小型の携帯用コンピューターで、フランシス・ウォンと頻繁に電子メールを交換していた。

 グレンの体調が悪化していることを知ったのはスペインにいる時だった。そして、出張旅行の最後の目的地であるオランダのアムステルダムのホテルで、私は、グレン・ホリウチの死を知らせる電子メールを、フランシス・ウォンから受け取ることとなった。

 急遽、予定を変更し、日本に帰る前にグレンの葬儀に参列することに決めた私は、ロサンゼルス行きの飛行機を予約し、故グレン・ホリウチにジャズピアノの習っていたUCB卒のLoren Kajikawaの運転する自動車で、告別式が行われたキリスト教会へ向かったのだった。

 そのユニークな告別式については、新聞や雑誌やインターネットで既に紹介されているので、ここでは触れないが、いかにもグレン・ホリウチらしいメモリアル・サービスであった。参列者は彼の死を悲しむと共に彼の残した偉大な足跡と思い出をかみしめているようだった。

 日系アメリカ人ピアニスト&三味線奏者、グレン・ホリウチのことを知る日本人は残念ながら多くはない。いや、ほとんどいないかもしれない。私は、日本人として、生前のグレンと交流したことを誇りに思う。そして、彼の音楽は今もまたこれからも、若い世代のアジア系アメリカ人ミュージシャン達や黒人、白人、そしてアジアの創造的なミュージシャン達に影響を与え続けていくであろう。

 

 グレンの自宅を訪れたとき、私は日本から彼の3枚のLPを持参していた。私はグレンにサインを頼んだ。

 グレンは彼のデビューアルバムである”NEXT STEP”のジャケットの裏にこう書いてくれた・・・

 

 ”Minoru,Take The Next Step!”

              Glenn Horiuchi

 

                           神田 稔

                  Minoru Kanda

 

        Japanese Correspondent

          Asian Improv Records

                Member Of AALA

仏になった音楽家~グレン・ホリウチさんの事  by牧野はるみ

「Wadada・Leo・Smith・And・N’da・Kulture;Golden・Hearts・Remembrance」(CPCD-002)でピアノと三味線を弾かれていた日系三世のグレン・ホリウチさんが亡くなって、もう13年になりました。亡くなった直後に友人だった牧野はるみさんと神田稔さんがグレンに追悼文を書かれていました。ここで公開させていただきます。まずは、牧野はるみさんから。

 グレン・ホリウチさん(作曲家:ピアノ・三味線)が6月3日、午前9時に亡くなりました。グレン(以下敬称略)と初めて会ったのは、1994年の春だったと記憶しています。カリフォルニアに住まいを移してから、レオ・スミスは新しいグループ編成のためにミュージシャンを探していましたが、ピアノがなかなか決まらずジョージ・ルイスに打診したところ、「グレン・ホリウチというピアニストを知っているけれど、彼は君の音楽にとても合うと思う。」との事で後日グレンが三味線を持ってリハーサルに現れたのでした。

 

 日本のメディアは、日系アメリカ人のジャズミュージシャンを決して紹介しないという姿勢を貫いている為、私は彼の事は全く知りませんでした。いわゆる東洋人の痩せ体型のグレンがピアノを弾き出すと、レオのいつもの怖い顔が柔らかい表情になっていったので、「あ、この人に決まるな。」と思いました。レオのスコア(初めて見る人は大抵困惑する)も短い説明で問題無くクリアし、即興部分の美しいこと・・・・・。音の混沌をほぐしながら次のメロディーに繋げるところなど、ちょっとセシル・テイラーに似ているなと感じました。レオはグレンの上手さはもとより、三味線も弾ける事が気に入った様でした。アフリカン・アメリカン三人、ユダヤ系一人、日本人二人、私は東洋人がもう一人増えて、とても嬉しかったのを覚えています。

 

               *

 

 グレン・ホリウチ(1955年2月27日~2000年6月3日)はシカゴ生まれの日系三世(日本名:敦史)。’60年代にシカゴからロサンゼルスに移り住み、以後西海岸在住。両親は日本人強制収容所の経験者。日系三世は子供の頃から、財産を全て政府に取り上げられ、大人一人につきトランク一つで収容された事を聞かされて育つ。両親が音楽好きで子供達一人一人に違う楽器を習わせ、親類が集まると当時の流行歌などを演奏して喝采を浴びていた(叔母は長唄三味線の師匠:リリアン中野)。「兄のピアノは小さい時から天才的だった。」とは葬儀での弟さんの証言。カリフォルニア大学リバーサイド校を1977年に卒業。数学の修士課程をサンディエゴ校で1980年に終了し博士課程に進んだが途中で断念。その後1984年に同じく日系三世のエドナと新年のパーティーで知り合い結婚。グレンは働きながら地元で音楽活動を続け、彼の評判はベイエリアに広まって行った。1987年に西海岸に住む東洋人のミュージシャン達とアジアン・インプロ・レコーズを創立し、オリジナルな音楽を通してコミュニティーと係わり、三味線・ピアノの講師、スタジオ・ミュージシャン、コーラスの伴奏、映画音楽の編曲、自動車修理、建築現場作業、政治活動そして禅のインストラクター等、数々の仕事をこなして生計を立てていた。

 

 

 

 アメリカという国で東洋人は何に置いても力が及ばないと見なされている土壌があり、有色人種として差別されるのは勿論、政治の場に東洋人が介入出来る可能性はゼロに等しい。アメリカは力(PowerではなくForce)の国であり、実権を握る人々と成功したユダヤ人のドリームランドである。そんな国でジャパニーズアメリカンの音楽家が、ましてやフリージャズで生計など立つ訳がない。グレンは多くの大学の講師募集に応募したが、東洋人にクラシック音楽が教えられる訳がないと断られ、ジャズのコースが有る音楽学校では東洋人にジャズは出来ないと門前払いされるなどの経験から、大学での職を諦めてしまった。それでも自分の音楽を信じ、たとえ売れなくてもCDを制作し、歴史に埋もれていく声無き人々と想定不可能な未来のために音楽を捧げていた。1988年に長年の努力が実り、サンディエゴ地域財団からコミッションを受け、ソロピアノ曲「一世魂」を作曲。1993年、ベルリン・ジャズ・フェスティヴァルに叔母を交えたトリオで出演。1994年、エンダ・カルチャーに入ってまもなく、息子ケンゾーが生まれた。

 グレンにいつも付き纏っていたのは、「自分は何者であるか?」という事であった。血は日本人であるが三世は日本語が話せる訳ではなく、アメリカ人としては認められず、音楽を職業に選びながらもその独自性を理解する者は少ない暗澹とした年月の中で、妻エドナとの支え合う毎日が有り、禅との出会い、仏教哲学の研究、仲間達との創造音楽を形にする喜びや、子供の成長を見守れるありがたさを味わい、生きているその事実だけでよしとする、強い精神力を養っていった。即興演奏におけるグレンのパッションの強さ、そして愛は、極みを見定めた者だけが表現出来る、生身の血潮そのものである。

 

               *

 

 グレンが往ってしまって彼の音楽はCDなどで残っていますが、彼の笑顔や冗談話、時々してくれたお説教がもう聞けないのは私にとってとても悲しい事です。私の最初の夫(レオの前)が、日系三世で三世特有の気質に接するのは初めてではありませんでしたが、本当にこんなにオープンで良い人に出会えた事を光栄に思っています。グレンが大腸癌であと数年ももたない状態だと知った本人とご家族の苦しみは、友人の私には計り知れないものでしょう。

 グレンの最後のコンサートは、1月22日ロサンゼルスのジャパン・アメリカ・シアターで催され、あの大きな会場(600人収容)が一杯になりました。「僕はまだ死んでいないんだから、あまり大騒ぎしないでよ。」と言いつつも、信じられない程元気にプログラムの曲を演奏し、素晴らしいひとときでした。この時の入場料はグレンの治療費に当てられました。アメリカでは病院選びを間違えると時に大変つらい思いをするものです。グレンも手術後三日で退院させられたり、するべき検査を中々して貰えなかったり大変でした。

 

 葬儀は2000年6月7日でした。ピアノを弾くグレンの写真の横に、白い布に包まれた遺骨が有りました。レオがぼろぼろ涙を流して止まらないので、私とデイヴは見ない振りをしてあげました。ローパーはグレンとはエンダのメンバーの中で一番交流があったので、葬儀の音楽係りで忙しくしていました。サンシップは人工透析の日にぶつかってしまい、来る事が出来ませんでした。終わりに出席したミュージシャン全員でグレンの曲を演奏し、その中で私は短歌を詠みました。

 "Even if we cannot see him anymore,this cloud with the wind will bring our words to him."

 「大和べに風吹き上げて雲離れ、退き居りともよ吾を忘らすな。」

 

 さようならグレン、今までありがとう。

 

上記文章は2000年に書かれた物に加筆したものです。

 

                         牧野はるみ

            葬儀のプログラム。

ブチ切れたラジオ放送。

一楽師匠が即興をやり始めてまだあまり経っていない1993年6月15日。徳山(今周南市)にあるKRYというローカル放送局の女性アナウンサー(その当時は毎日のようにTVに出ていた。)がカフェ・アモレスにやって来て、ラジオの放送用にと、一楽師匠のソロを取材にやって来た。録音は俺がDATに録って渡したと記憶している。どういう経緯でカフェ・アモレスを知り、一楽師匠を知ったのかは知らないが、とにかく15日に収録となった。はじめはにこやかにしゃべっていたが、演奏が終わってそのアナウンサーが帰り際に発した言葉が「私、こんなの大嫌い!」だった。嫌いなのはしょうがないし、日本全国民に聞かせりゃ本音は「大嫌い!」だろう。面白がるのは多分500人以下だろう。それは今も昔も一緒。だが、本音も吐く時と場所ってあるもんだ。そうこうしていると、放送日。多分広島で収録したのだろう。この女アナウンサーと今は自民党の政治家になってる男のアナウンサーが、一楽師匠の演奏を流し、ボロクソにけなしたのだった。まあ、本音の発言といや聞こえはいいが、これを公共の電波に流したのだ。評論なら許せる。が、こいつらのはただの好き嫌いの感情だけ。この二人のツラがTVに出て来ると今でもむかっ腹が立つ。(20年たっても怒ってるんだから俺も相当なバカヤローかもな。)ライヴ常連のKさんは「訴えてやる!」とマジで怒っていたが、現実、こんなことで裁判は無理。マスコミの連中(今や政治家の先生!)ってこの程度ってことだ。この話を一楽師匠にしたら、「覚えとらん。」 こうでなきゃミュージシャンはやっていけないんだろう。こんなの序の口らしいから。海外じゃ、ホントに命のやり取りもあるらしいから。

          そんなむかしのこと

          うじうじ言ってないで

      こうやってのんきにやってりゃいいの

豆情報。

 

猫がこんなカッコで転がっている時は、気温が22度以上らしい。

・・・どうでもいいか。

Empty・Hats 改定版

白桃房の公演のページでも少し触れていた「Empty・Hats」について、友惠しづねさんと、怪獣めぐらさんと、吉沢さんのボーヤをしていた浅見光人さんよりくわしい情報が入ったので紹介いたします。以下の文章は浅見さんが書かれたものに、友惠しづねさんからの情報を加え、私がまとめたものです。

友惠しずねこと山田博和さんがアルバム「孤山」を録音中、最初の共演者として呼ばれたのが吉沢元治さん。このLPには他に高木元輝さんも参加している。録音は、1985年。録音後、浅見さんがライヴ会場で機材のセッティング中に、吉沢さんが「凄くいいギターがいたんだよー。」と話しかけて来られたそうです。しばらくすると吉沢さんは、友惠しづねさん(現在、こう自称されているので、これからも山田博和ではなくこう書きます。)との共演を増やしていかれたようです。その頃、集客上ちょっと特別に力を入れるライヴ・コンサートにはサブタイトルのようなものを付けていて、友惠しずねさんとのDUOには「Empty・Hats」というタイトルが付与されました。1回目、2回目のライヴ時に顕著となったリズム上のウィークポイントと、弦楽奏者は興奮すると高音部ばかり発音することへの補強の為、そしてどうしてもデュオだとストイックになっていってしまったので、他のヴァリエイションを考える為にジョー・水城さん達が呼ばれた。 ジョー・水城さんが参加したトリオの最初のライヴは、ジョー・水城さんの地元、横浜エアジンだった。吉沢さんは「いいドラムだから、見違えるようによくなって行くよ。」と言われていたそうだ。浅見さんの記憶だと、この時ユニット名として「Empty・Hats」が正式に決定したそうです。怪獣めぐらの解説では、「マジシャンが空っぽのシルクハットから兎なんかを出す時のように、何が飛び出して来るか分からないワクワクするような演奏。」というイメージで付けられたのだとか。このエアジンでのライヴが大成功で、吉沢さんは、ソロ以外は「Empty・Hats」の活動が母体となりました。友恵しづねさんによると、吉沢さんとのデュオがあくまでも「Empty・Hats」で、トリオだとの認識はないとのことでした。友惠しづねさんとジョー・水城さんは時々ライヴに参加しなかったりはしていましたが、しばらく活動は続いていました。その後、ジョー・水城さんが体調を悪くしはじめられて活動が制限され経済的理由で、そして友惠しづねさんは白桃房に専念する為ご無沙汰することが増えて行きました。そこで吉沢さんが共演者に選んだのが灰野敬二さんなのでした。89年上半期に下北沢のスズナリで白桃房2Daysを三上寛さんをゲストにして催したのが「Empty・Hats」にジョー・水城さんを加えた三人が揃った最後だったようだ。今のところ「Empty・Hats」にジョー・水城さんを加えた三人による録音は世に出ていない。「Empty・Hats」は、その後も活動を続けていたそうだ。

世には出ていないが、我が家にはその一部が存在する。これは、友惠しづねさんから頂いたカセット・テープをCD-Rにコピーしたもの。正にこれが「Empty・Hats」だったではないか!クレジットには、「Empty・Hats」とは書いてなかったので知らなかった。なんだか凄いものを発見した感じ。

「友惠しずね」と間違えて書いています。「しづね」です。

カフェ・アモレスの名前の由来は?の巻。

カフェ・アモレスの「アモレスって何?」と、何度か聞かれたことが有った。「曲名から取りました。」と答えていた。そう、これはジョン・ケージの「Amores」という曲なんです。「Amores」と言って分かってもらえたのは高田みどりさんだけだったが。この曲は四つに分かれて、1、プリペアード・ピアノのソロ。2、打楽器のトリオ。3、同じくトリオ。4、プリペアード・ピアノのソロ。合わせても9分程度の小品。ケージの曲の中でも地味な曲だろう。1982年(?)ケージが来日し、軽井沢の高輪美術館でコンサートを行うという情報をGet!ケージも歳だし、最後の来日になるだろうと思い(翌年また来た!)、有り金を財布に詰め込んで(表現が大袈裟。ちょこっと入れてが正解。)、一路軽井沢にGo!さすが軽井沢は東京より涼しい。特に木陰はウソのようにヒンヤリした。あの頃の軽井沢は今みたいに観光客で賑わってはいなかった。(行ったワケじゃない。TVのぽちたまでダイスケ君が行ったのを見ただけ。)お金持ちの避暑地って感じ。我々貧乏人一行は避暑なんて言葉には無縁。さっさと会場に向かう。コンサートはフラットな広い空間を使って行われた。この日の目玉は、「Variation・Ⅳ」。その他は、サティ、一柳慧の「サッポロ」、デュシャンの曲!等々。その中に「Amores」も演奏された。生で聴いても地味な曲。だが、妙に耳に残ったのだった。それで、店名にしたってワケです。さて、このコンサート。参加ミュージシャンが超豪華。ケージ、一柳、高橋アキ、山口恭範。他にいったけ?デュシャンの曲は演奏出来るようにするまでの作業も公開された。ボールをロートに投げ入れて、落ちたボールに書いてあることを演奏可能な状態に楽譜に留める。一体これがどんな音になって出て来るんだろうとワクワクして見ていた。この曲名はガラスに書かれた有名な作品と同じ名前だった。「ナントカカントカの花嫁さへも。」だっけ?(近頃は、作品名だの曲名だのCDのタイトルさえも全く覚える気力さえありませんです。)出て来た音は、正に偶然性の音楽。上下左右、どれとも音と音を結びつける関係性は無し。こういうのに一旦ハマると一生抜けられません。さあメインイベント「Variation・Ⅳ」。たしか、この曲の楽譜は透明なシートが何枚かあって、それを上から落としていって、そこに現れた線とか点を演奏可能な譜面に起こすのじゃなかったけ?

後から聞いた話だと、この日ケージは、この作業をせず、「きょうは何をやっても構わない。」と言ったとか。これって「Variation・Ⅳ」じゃなくて、「集団即興」じゃないの?その詮索はさておき、これが面白かったのなんの!客がいるスペースには誰もおらず、会場の外から、ギー、ドスン、ガタン等々色んな音がしている。ときどき誰かが入って来て、何がしか音を出す。一柳慧さんはピアノをセシル・テイラーのごとく弾き倒す。ケージは手を上げ下げして映像をコントロール。会場の外にあった立て看板をギーと音を立てながらヒコジッて(これ、方言か?)来た。山口氏はこの日は会場全体が打楽器と化していた。これまで一番興奮した演奏がこれだ!これが聴けた(体験出来た)なんて、なんとも幸運なことよ。終演後は客は全員バスに乗せられ駅に送られた。東京に着いた時、俺の財布の中は、たったの50円玉一個しか入っていなかった。翌日からどうやって暮らしていったんだろうねー?あら不思議?

この二枚で「Amores」は聴くことが出来ます。

Butch・Morris(ブッチ・モリス)のConduction(コンダクション)。その一。

追悼。ブッチ・モリスさんは、2013年1月29日肺癌の為お亡くなりになられました。

1995年3月5日、P3という所で行われた「Conduction・50」についての思い出話です。まずは、「コンダクション」とは何? 「即興を指揮する。」とは何? まずは、即興の出来るミュージシャン、いわゆるインプロヴァイザー達を集める。(実際はいわゆるインプロヴァイザーだけじゃなく、現代音楽やロックや民族音楽の人達等々色んな人が集まった。)音楽家、演奏家とは限らない。詩人ばかり集め、詩の朗読だけのコンダクションも行われている。残念ながらコンダクションの録音を集めたCD・BOX、「TESTAMENT」にも収録されておらず聴いたことが無い。ブッチは「入れる。」と焼肉食べながら言っていたんだけど残念。ブッチは集めたミュージシャン達の前に立つ。ミュージシャン達は、まずブッチの考案したサインを覚えなければいけない。手をこうすると「今鳴らした音を覚えておけ。」、「止まれ。」、「繰り返せ。」、「お前は寝とけ。」(これはウソ)等々結構たくさんあるらしい。梅津さんが「そんなに覚えられないよう。」と言ったという話を耳にした。(バラしてごめんなさい) 実際金大煥さんは「ぜんぜん指示に従ってくれなかった。」とブッチが言っていた。が、「でもいい演奏してくれた。」とも言っていた。あと、デレク・ベイリーも指示には従わなかったそうだ。だいたいインプロヴァイザーって、基本的には全てにおいて人の指図には従わないような連中だろう。人が「右」と言えば「左」を向かなければ気がすまない連中だ。(インプロヴァイザーじゃないけど俺も) じゃないとクラシックやってるんじゃないの?と、話がそれた。では、ミュージシャン達はブッチの言いなりかといえばそうじゃない。とにかく誰かが何かの音を出さないことには演奏のきっかけすら無い。そこはやっぱり「即興演奏」なのだ。とにかく即興で音を出す。出て来た音をブッチは注意深く聴き、「おい、そこ、今のを繰り返してろ。」とか、「ハイ、もうやめろ。」とか、「お前はもう家に帰って寝てろ。」(なんてことは言わないが、頭の中じゃあったのでは?)とかのサインを送る。ミュージシャン達も「どうだブッチ、この音面白いだろう。」とかのサインを送り続ける。それと同時に全体の音の動きに注意深く意識を働かせ音を出す。決してクラシックのオーケストラのように指揮者の支配下に置かれているばかりじゃないのだ。でないと即興じゃない。あくまでミュージシャンも自発的に音を出しているのだ。なにもこれは新しいことじゃない。エリントン楽団が大昔からやっている。アンドレ・プレヴィンが「一体どうなっているんだか分からない。エリントンが手を挙げただけで音が変わる。楽譜には書かれていないのだ。」と言った部分が、エリントン流のコンダクションではなかったのかなあ。昔プレヴィンのインタビューで読んだことがある。

コンダクションのCD・BOX「Testament」。コンダクション日本公演も#28,#50が収められている。バラ売りも有り。

ブッチのコンダクション。 その二。

前乗っていた貨物船を海外売船にすることになった。その為にはわざわざ東京まで行って、船を売る者が船主本人であるかの確認の為の面接を受けなきゃいけなかった。そこで俺が慣れない背広にネクタイ姿で東京まで行ったというわけ。砂防会館の中に入り、偉そうにしたジジイ連中に取り囲まれ、それで聞かれたのが住所と名前と船名だけ!? それでおしまい! なんとも形式的なシロモノ。金と時間をかけて、たったこれだけのことをするだけに、はるばる東京まで来いってか! ばかにするな! って、いつもの俺ならとっくにブチ切れてるところだが、この時は違った。この面接の翌日はブッチの「コンダクション・50」のコンサートがあったのだ。なんという偶然。面接がなけりゃはるばるお江戸にまで仕事を休んで行けませなんだ。何年ぶりかのお江戸です。友達や知り合いがたくさんいる。久しぶりに会いたいのはやまやまなれど、今度のコンサートには金大煥さんも出る。案の定俺は金さんのカバンモチと化してしまったのだ。一日中金さんと一緒だった。でも、これが楽しかったのだ。ブッチと金さんとで焼肉屋で昼間から焼肉を食べたり、新宿のDisk・Unionに行って、なぜか金さんが自分のCD「黒雨」を買ったり(知り合いにプレゼントしようにも、すでに金さんは持っていなかったらしい。驚いたのは店員さん。本人が自分のCDを買うのだから。)、演奏がとっくに終わってるPIT・INNに「やあやあ。」と入って行ったり(え?なんで金さんがここにいるの?っていう顔を出演したミュージシャンがしていた。)と、楽しい一日だったのだ。金さんは、コンダクションでブッチと共演するよりも、ブッチのコルネットと共演したがっていた。俺もブッチのコルネットのあの独特な音が大好きで、二人で「またコルネットを吹いて欲しい。」とブッチにお願いした。「また吹くのなら相当練習しなけりゃいけない。」との返事だった。

金大煥(Kim・Dae Hwan )さん。

コンサート時の写真ではありません。撮影者不明。金さんにいただいた写真です。

ブッチのコンダクション。 その三。

さて、肝心のコンサートの様子はというと、これがあまりよく覚えていないのだ。何故か? コンサートも始まる直前に、金さんが自分の記録用に、「撮って欲しいの。」と俺にビデオカメラを手渡したのだ。三脚は勿論無し。俺は演奏が終わるまでずっとカメラを抱えたままだった。手はくたびれて来るし、かといってブレちゃいけないし、それでも良く撮りたいしで、私疲れました! なるべく満遍無くミュージシャンを入れたかったし、金さんの目立ってる所は勿論外せないし、結構がんばったのだ。でも、このヴィデオは一度も見たことがないのが残念。今でも金さん宅に保管してあるんだろうか。撮り方はヘタだったかもしれないが、今となっては貴重な記録だ。

さて、このコンサートは誰が企画し、成功させたか? 「アラパパ企画」というへんな名前の事務所?です。そう、吉沢元治さんことパパさん。いや、逆だった。それと、見た目は怪獣だが、やるときはやる怪獣めぐらの二人が東西南北奔走して実現したコンサートだったのだ。それも二度も!いや四度になるのか?それだけ吉沢さんはブッチが気に入っていたのだろう。幸運にも、二度のコンサートの模様はCD化されている。神戸では、若いミュージシャンを集めたコンダクションが行われた。水戸の芸術館(だったか?)では、クラシックの演奏家ばかりを集めたコンダクションも企画されたと聞いている。その時、クラシックの演奏家は全く即興が出来ないので、ブッチがいくらサインを送っても話にならなかったそうだ。そこで、急遽ブッチが短いフレーズの断片を何枚も紙に書いて、それを見せるという方法を取ったのだとか聞いた。ここらへんの事実関係は今やそうとうあやふやなので、みなさん俺の話は半分くらい信じて下さい。「それなら書くな!」 ごもっとも。でも、新聞だろうがネットだろうがそんなもんじゃんえーか!と、悪態をつく私です。オシマイ。

グローブ・ユニティー in Japan

まだお江戸にいた頃、グローブ・ユニティーが来日するというBig・Newsが飛び込んできた。その頃やっとインプロヴァイザーがぼちぼち日本にやって来始めたのだったが、まさかヨーロッパ・フリーの総本山、グローブ・ユニティーが聴けるなんて夢にも思わなかった。そりゃもう頭の中ははじけ飛んだ。今でも存続しているのやらどうやら当事者も分かっていない?のだが、「ミュージック・リベレーション・センター・イスクラ」というサークルにいた。当時は定期的に「パフォーミング」というフリー・ペーパーを発行していたのだが、グローブ・ユニティーのメンバーにアンケート用紙を配って、質問に答えてもらおうということになった。これが結構アンケート用紙が回収出来たのだった。しかし、そのアンケートをすべて掲載出来ていなかったはずだ。なにせ手書きで書かれている為、一体何て書いてあるのやら判読不明な所も多かったのだ。それを掲載するワケにもいかず、途中で断念したのだろうと記憶している。これまでも、エヴァン・パーカーさんから、何通かの手紙や絵葉書が届いているんだが、こういうのを達筆というのやら、俺みたいな「文字以前」なのやら判断がつかないのだが、とにかく読めない所が多いのだ。(エヴァンさん、ばらしてごめん。いや、あれは「達筆」なのかもしれんぞ。)字の汚い俺みたいなのにはE・メールはその点有り難い。さてと、グローブ・ユニティーのコンサートだ。会場は久保講堂。ステージにはヨーロッパ・フリーの強者がズラーッと半円形で陣取っている。その光景を見ただけで、ブルッと背筋が震えたものだった。 会場は大入り満員だった。俺は招待席でお金を払って観ていた。招待席の客(もちろん知人)が、「一番前の席で見たい。」と言って、俺に招待席を譲った。しかし、この会場はステージが高くて、最前列だと高すぎてステージ上がよく見えなかったようなのだ。結果、俺はステージ全体がよく見ることが出来て正解だった。

演奏は、結構きっちりと作曲されていた。完全即興でフリー・ファイトみたいな演奏は無かったはずだ。しかし、その中でのソロたるや、驚きの連続だった。スティーヴ・レイシーは演奏していない時ですら貫禄があった。たたずまいだけで「凄い」と感じさせた。彼はアンケートの「影響を受けたミュージシャンは?」の答に「海童道」を挙げていた。エヴァン・パーカーさん(知り合いなのでさん付け)のソロの第一声で皆会場中がのけぞった。これは大袈裟な表現じゃない。グローブ・ユニティーは前衛オーケストラということになるんだろうが、実際に聴いた印象は、JAZZのBig・Band以上にSwingしていたってこと。まあ、Swingの形がちょいと違うかもしれないが、彼等もJAZZの血が流れているんだなあと感じた次第。コンサートの翌日、新宿のディスク・ユニオンの地下のJAZZコーナーに行ったら、なんとAlexander・von・SchippenbachさんとEvan・Parkerさんの二人がLPを買っていたのだった。その頃は勿論今みたいに面識があるワケじゃなく、ただただ「わー、いた!」ってなもんだ。もう一人日本人がいたが、稲岡邦弥さんだったんでしょ?稲岡さん?その当時ECMはトリオ・レコードが日本では発売権を持っていて、グローブ・ユニティーの「Improvisations」と「Compositions」(ともにECMの傍系レーベルのJAPOからリリースされた。)も出していた。もう、まさかのリリースだった。トリオ・レコードのプロデューサーだった稲岡さんはその仕掛け人の一人のはずだ。近くで様子を伺っていて気が付いたのだが、ドイツ人のAlexさんが英語で話し、イギリス人のEvanさんがドイツ語で話をしていた。なんだか感心してしまった。彼らがどんなLPを買っていたかというと、Swing・Jazz以前のLPだった。後年誰かに聞いた話だが、ヨーロッパでは古い時代のJAZZのLPって入手が難しいんだそうだ。前衛最前線の二人だけど、こういうのを聴いて参考にしたりしているんだなあと、頷いていた私でありました。ところで、このコンサートは後日FM東京の「ゴールデン・ライヴ・ステージ」という番組で放送された。その頃、ラジカセを持っていなかったので、ラジオから出てくる音を、マイクをラジオのスピーカーに近づけて、デンスケ(ソニーの生録音用のカセット・レコーダー)に録音している。今も録音を持っている。日本JAZZ&Improvisation界の大事件(なのだ!)をぜひともCD化すべきだ!と、書いたけれど、どうやら録音は消去されているみたいだぞ。バカヤロー!

なぜか持っている来日公演の企画書。Alexさんが欲しがったので、一冊差し上げた。物凄く喜ばれた。

このアルバムを再現したと思えば、コンサートの様子が想像出来る。これを聴く度にコンサートの思い出が浮かんで来る。 グローブ・ユニティーの前座は、山下洋輔トリオだった。サックスが武田和命だった頃のトリオです。オーケストラのメンバーに渡したアンケートの中に山下トリオの印象を聞いているところがあった。全体的に、あまり感心したようじゃなかったようだった。俺もまるで記憶に残っていない。まあ、トリオも末期で、すでに登場した当時のインパクトはまるで無くなっていた頃だったので、当然といえば当然。山下自身もちょうど変化しだした頃ではあった。

ベルリン・コンテンポラリー・ジャズ・オーケストラ in 神戸 ’96

AlexさんとAkiさん率いるオーケストラ「ベルリン・コンテンポラリー・ジャズ・オーケストラ」のコンサートが神戸であるというので、カミさんと行った。神戸には船では行っているけど(だから岸壁しか知らない。)、オカからは初めて。この頃は震災からの傷がまだまだ癒えていない時期だった。コンサート会場は大入りの満杯状態だった。「神戸だと、こういうコンサートでも、満員になるんだなあ。」と思った。が、カラクリ(表現が悪かったか?)があった。前座に、地元の高校生のビッグ・バンドが出たのだ。彼等の親、兄弟、親戚、友達なんかだけで結構な人数は稼げるってもんだ。実際俺の周りにもそれらしき連中がたくさんいた。高校生の演奏は、それはそれでなかなかの演奏だった。ちょっと驚きだった。TVでやっていたんだが、ここらへんは高校生のビッグ・バンドの活動が盛んで、レベルが高いそうなのだ。さて、BCJO。何故「ベルリン」かといえば、ドイツのベルリンで、クラシックには猫でも知っている「ベルリンのオケ」が有る。じゃあ、JAZZでも匹敵するオケが必要だってんで白羽の矢が当たったのがAlexander・von・Schlippenbachさん。最初のアルバムはECMから出た。これ、恐ろしく良い!今でも時々聴いているくらいだ。まさかこのオケが生で聴けるとは夢にも思わなかったなあ。オケのメンバー丸ごととはいかなっかたとみえて(元々メンバーがカチっと固定しているワケじゃないみたい。)、アキさん除いて五人の日本人ミュージシャンの助っ人が入っていた。グローブ・ユニティほどのトンガリ具合じゃないけれど、お客さんの多くは想像していた以上のものだったらしくて、俺の近くでも「すげーアヴァンギャルド!!」と嬉しかったんだか、そうじゃなかったんだかどっちか分からないが声が上がっていた。多分高校生の身内だったんだろう。演奏が終わると、それでもパチパチ拍手していたんだからウケていたのだとする。俺はといえば、ホント良かった、凄かった、感動した!生きててよかった!? トーマス・ヘベラー、アクセル・ドゥナーという若いトランペッターに感心し、昔からのファンのゲルト・デュデクの演奏に「聴けてよかったー。」と思い、エヴァンさんのソロにやっぱりぶっ飛んでしまった。ピアノがAlexさんとAkiさん二人というのも贅沢なこと。プリペアード・ピアノもしっかり聴けた。以前カフェ・アモレスで演奏された曲もオケで聴けたりと、思う存分楽しませていただきました。この時の録音がDIWよりCD化されています。買うように!コンサートがはけて、「さあ、メシだ。」と言う時にエヴァン・パーカーさんに「一緒に行こう。」と誘われたけれど副島さん達と行くことになっていたので断ったのだけれど、ジャパニーズはほっといてエヴァンさんに付いて行くんだった。それから一度も会えていないのだ。翌朝、ホテルのロビーに降りて行き、カフェでコーヒーを飲んでいたら、目の前にコンサートの録音エンジニアをされていた及川公生さんの姿が見えた。直接お会いしたことが有るわけじゃないけれど、防府にある「サウンドテック」というオーディオ店の社長さんと及川さんは古い付き合いのある人で、店に来られてイベントに出ておられたことがあった。その時客で行っていただけのことなんだが、声をおかけすることにした。「世の中狭いねー。悪いことは出来ないねー。」とのことでした。ぼちぼちミュージシャン達は次の公演地新潟に行くためバスに乗らなきゃいけない時刻だってーのに、オケのリーダーのAlexさんとAkiさんの二人は、のんびりと階段を下りてこられた。それでも、全く慌てる様子もなく、俺なんかと話をしたり、一緒に写真を撮ったりしてるんだから、大物はこうじゃなくちゃいけないんだなあーと感心するやら・・・。

 

大阪で小杉武久さんに「ところてん」を食べながら出演交渉するの巻。

大阪行きにはもう一つ目的が有った。なんとなんと、小杉武久さんに会えるのだ!「ぎゃおー!」と吠えたいところだが、ここは冷静に書くとする。小杉さんに会う目的は、吉沢さんと「カフェ・アモレス」で演奏してもらいたかったから。吉沢さんが、どうしても「カフェ・アモレス」で小杉さんとDUO・LIVEをしたいと言われ、白桃房の公演で大阪に行くことになったので、では一緒に小杉さんに直談判いたしましょうとなったわけ。そして、小杉さん、「HEAR・sound・art・library」の岡本さん、吉沢さん、怪獣めぐら、そして俺の五人が交渉の場に選んだ(というか、小杉さんが選んだ)場所がなんと甘味処! 「ところてん」を食べながらまずは吉沢さんが直接交渉。ところで、山口県民の俺は「ところてん」は「おやつ」じゃなくて「おかず」という認識。そもそも「ところてん」には酢醤油をかけるものだと思っていた。それが、大阪では「甘味処」などという「和のスイーツ」の店で「おやつ」として食すというではないか!?それも、「黒蜜」などという甘~い液体をドバーッとかけるではないか!?もう、カルチャー・ショックである。しかし、みんなの前では何もなかったフリを装っていた。と、ここまでは「秘密のケンミンショウ」でした。さて、直接交渉だった。吉沢さんは、伝家の宝刀「俺は、もう長くは生きられないんだよ。そこでどうしても小杉さんと演奏してから死にたいんだよ。」攻撃に出るも、どうしても小杉さんは頭を縦に振っていただけなかった。店を出て吉沢さんと別れて、俺は小杉さんと一緒に地下鉄に乗ることになった。そこで、色々な話をしたのだが、ようするに「即興」といっても二人の目指す所が大きく違っていたということだ。おそらく水と油ほどの違いなはずだ。その違いをそのままにして共演は無理ということなのだ。いくら「前はやったじゃないか。」と言われようと、その時の小杉さんには、それは譲れる問題じゃなかった。俺も、二人の「即興」の違いは分かっていたつもりだったから、「NO」と言われれば素直に引き下がるつもりでいた。俺は小杉さんと色々な話が出来ただけでも有り難かった。でも、本音を言えば聴いてみたかったなあ!

三宅榛名、小杉武久、吉沢元治という異質な三人が「即興」という「場」を共有すると化学反応が起きた!別の物質がめでたく完成!といったアルバムです。カヴァー・アートは怪獣めぐら。

大阪まで白桃房の公演を見に行ったぞー!の巻。

姜さんが大変お気に入りの舞踏集団「白桃房」の公演が大阪で有り、おまけに吉沢さんと金さんが演奏するというので、新幹線に乗って行った。船じゃ何度も行っているが(港しか知らないけれど)、陸(おか)からは初めて。大阪の街はさっぱり分からないので、案の定迷子になってしまった。まあ、なんとか会場にはたどり着けたが、疲れた。初めての大阪の印象は、意外と田舎臭いというか、垢抜けないというか。姜さんも同じような印象だったらしく、「ソウルの街も同じ。」と言っていた。「大阪は嫌い。」なんて言っていた。おっと、こんなことを書くと、姜さん今後大阪で仕事が無くなってしまうかも。まさか!しかし、大阪のおばちゃんは、アレは絶対俺達と民族が違う!さて、舞踏公演だ。なんとか会場に着くと、怪獣めぐらや副島さんの姿があった。副島さんは、姜さんやサインホさんを白桃房に紹介した張本人だ。(なんだか悪いことをしたみたいだなあ。)この公演では、もう一人目玉になっている人がいた。韓国の芸術家、陸根丙(Yook Koun Byung)氏だ。彼の韓国のお墓、土饅頭みたいなオブジェがステージの真ん中にドスンと置かれてあって、もうそれだけでインパクトがあった。公演は吉沢さん、金さん、友惠しづねさんのトリオによる演奏から始まった。友惠しづねさんは、舞踏家でもあり音楽家でもある。本名の山田博和でLP「孤山」を出されている。これ、未だに現物を拝んだことがない。吉沢さんも金さんも、「カフェ・アモレス」で演奏した時とだいぶ違う印象を持った。舞踏公演のステージという独特の空気を持った場がそうさせるのだろう。「場」って、それ程影響を強く人に与えるものなのだ。「待ってました。」とばかり白桃房の人達がステージに現れ踊り出した。が、どうも様子が違う。舞踏というと、全身白塗り、ほとんど裸どうぜんかボロ布を纏っているというような感じだ。それが、驚いたことに白塗りもしていないし、ボロ布じゃなくていたって普通のカッコなのだ。なんと、ジャージ姿!? そこらへんに散歩に行って来るって感じだった。これが逆に新鮮に映った。「場」だけじゃなく姿形の違いでもこれだけ印象って変わるものだ。最近驚いたことに、この公演が収録されたDVDが発売されたのだ!「眠りへの風景」という作品。大阪公演の様子の他、陸根丙氏の映像作品や友惠しづねさんとの対談も見ることが出来る。なにより圧巻なのが、「蓮遥抄」のリヨン公演が丸ごと見ることが出来るのだ。必見!必携!

打ち上げの席では、友惠しづねさんの隣に座らせていただけて、色々な話をさせてもらった。この時サプライズが起こった。Tさんという金さんの「日本の後援会長」さんが、「ここの支払いは、私に任せなさい!」と言われたのだ。全員「やったー!」となったのは言うまでもない。「カムサハムニダ」でした。

吉沢元治さんと金大煥さん。これは、舞踏公演の時の写真ではありません。もっと前のもの。吉沢さんから提供された写真です。

公演の時は、私は金さんのすぐ横で座って聴いていた。金さんの太鼓の音ばかり大きく聴こえていた。

 

撮影:五海裕治 

Apostle Paul~Kang Tae Hwan/姜泰煥

Apostle・Paul。「アポッスル・ポール」と読む。「聖パウロ」のこと。と、書いている俺は、クリスチャンじゃないので、どんな人なのやら皆目分からない。これは、姜さんが作曲した曲の名前だ。姜さんからは色んな録音テープを貰っている。姜泰煥トリオ時代のから最近のまでたくさんの録音が我が家には有る。トリオ時代にソウル交響楽団と共演した録音も有る。そのほとんどは録音状態は劣悪でCD化なんて無理なのばかり。姜さん自身が録音の良し悪しなんて気にしていないのだ。「姜さん。これCD化したいから、録音の良いマスターテープを聴きたい。」と言えば、必ず「ボンクラ(ここ日本語で)プロデューサーが行方不明で、テープがどこの有るのか分からない。」の類の返事が返って来る。さて、「Apostle・Paul」だ。これは、姜さん、崔さんに加え、韓国の国楽の人達が演奏したもの。基本的には即興なんだが、ある程度の構造は決められているし、国楽の人達は明らかに楽譜どうり演奏している所が有る。即興アンサンブルと思えばよい。これが、すこぶる良い。いや、とんでもなく良い。音質が悪すぎてCD化出来ないなんて今後100年の失態だ。(ちょっと大袈裟か。) 崔さんは、エレクトリック・トランペットとエレクトリック・ハーモニカで大活躍だ。それが伝統楽器の音と反発し合うどころか見事に溶け込んでいる。エレクトリックだと言うことがプラスに働いている。姜さんの曲なんだが、聴き終えると崔さんのトランペットとハーモニカの音が強く印象に残るんだなあ。でも、姜さんのサックスの音って、伝統楽器に混じっても突出して聴こえる。とんでもない存在感。ある意味、とんでもなくクセの有る音色だ。ヨーロッパ発祥の楽器なんだが、アジアの伝統楽器よりもノイズ成分の多い音を出すし、音は揺れる。だからこそ良いのだ。面白いのだ。凄いのだ。姜泰煥/Kang・Tae・Hwanを知らないで音楽ファンとは言わせない!

 

カセット・テープをCD-Rにコピーした。もう、カセット・デッキは持っていない。姜泰煥トリオがソウル・シンフォニー・オーケストラと共演した曲(1983年2月22日)、それに加えパンソリの歌手も共演したした曲「Hansori」(1984年3月24日)、そして「Apostle・Paul」を収録。「Apostle・Paul」の録音は、俺の他は副島輝人さん、アレキサンダー・フォン・シュリッペンバッハさん、ネッド・ローゼンバーグさんしか持っていないはずだ。ちょっと威張る。

ブリジット・フォンテーヌ;ラジオのように。

シャンソン歌手、ブリジット・フォンテーヌがアート・アンサンブル・オブ・シカゴと共演したアルバム「ラジオのように」をご存じの方は多いと思う。当時バリバリのアヴァンギャルド集団AECが歌伴をやったというだけじゃなく、その歌手がシャンソンの歌い手さん(彼女を「シャンソン歌手というのも、ちょっと違和感が有るが。)というのも当時は衝撃だったはず。今はボーダーレスと言われて久しいので、今出たというのならたいして衝撃はないだろう。そんなこんな言ってる以上に素晴らしいアルバムだ。まあ、とにかくAECというのが注目になるわけだが、そのAECのトランペッターといえば御存知レスター・ボウイ(本当の発音はブーイーに近いそうだ。)。俺の中じゃ、歴代トランペッター五指に入る。しかし、このアルバムでは、全部がレスターの演奏じゃ無いそうなのだ。じゃあ誰だとなるわけだが、これがなんと俺の知り合いだったからビックリ! レオさんだったのだ。Wadada・Leo・Smithさん。本人から聞いたのじゃなくて、サブさんこと豊住芳三郎さんから二人して寿司をつまみながら聞いたお話。俺の隣じゃ、日本語の分からないミシャ・メンゲルベルクさんが「こいつら何の話題で盛り上がってんだ?」という感じで寿司をパクついていた。それからというもの、このアルバムを聴く度に、どれがレオさんの演奏なのか注意して聴くはめになってしまった。未だに結論が出ない。レオさん本人に聞くのは面白くないので聞いていません。どなたか分かったら教えて。

ECMから出たアルバム「Divine・Love」。この中に一曲レオさん、レスター・ボウイ、ケニー・ホィーラーという俺にとっちゃトランペター御三家みたいな豪華トリオの演奏が収録されている。ちなみに、カヴァーデザインはペーター・ブロッツマン。

おまんまレコード?

「ちゃぷちゃぷレコード」。ヘンな名前のレーベル名である。1994年に、俺が立ち上げたCDレーベルだ。「なんで、ちゃぷちゃぷなの?」と、何度も聞かれた。高橋悠治さんは、「波の音でしょ。船乗りさんだから。」と、この疑問を代表するお答え。ところが、コレが違うんですねー。(天下のYujiさんに勝った気分!) ずいぶんと前に、韓国にくわしいある人が、「ちゃぷちゃぷ」とは、心の落ち着いた様子、平穏な様子とかなんとか書いていた。元々、なんでCDレーベルを立ち上げたのかというと、姜泰煥(カン・テーファン)さんの演奏を聴いて、ドッカーンとやられてしまい、「コレを記録に残さずして、何を残す?」と思ったのでありました。そう、元々は姜さんの為に作ったレーベルなのでした。

その姜さんのたたずまいと、ちゃぷちゃぷの持つ意味を掛けてこのレーベル名にしたわけです。もうひとつは、姜さんが、「さて、メシにすっか。」と、言うところを、「ちゃぷちゃぷ。ちゃぷちゃぷ。」と、よく言われるのが面白くって、それにも引っ掛けて「ちゃぷちゃぷレコード」とした分け。しかし、後年思わぬことに!

姜さんと同じ韓国人の崔善培(チェ・ソンベ)さんに、このことを話したら、ショーゲキの事実が! 「ちゃぷちゃぷは、韓国の幼児語で、おまんまのこと。そんな意味は無いよ。」と、言われるではないか。しかし、「まあ、えーか。」である。おまんまを食うように、ちゃぷちゃぷレコードのCDを、聴いてくれ!現実は、売れてまへん!

これが「ちゃぷちゃぷミュージック」及び「ちゃぷちゃぷレコード」のロゴ。書いたのはカミさん。10年以上前くらいは書道教室に通っていた。全国大会に出品しては大賞を取っていたが、習うのにあまりにもお金がかかるので止めてしまった。その頃から猫がどんどん増えていっている頃で、こいつらにお金がかかりだしたのだ。それに猫がゴロゴロいる状況ではとても、書なんて書けたもんじゃない。半紙といっても畳くらいある代物だ。猫の五匹や六匹は上に乗ってしまう。しまうじゃなくて、ゼッタイ乗る。

ウクライナから手紙が届く。

ある日、Yuri・Kirillowskiなるウクライナ人から手紙が届いた。Lutskという町のラジオ局でディレクターをしていて、なんとフリー・ミュージックや民族音楽なんかを放送しているらしい。ウクライナでそんな番組が出来るなんて、ビックリだった。日本じゃ、あと千年経っても無理な話だ。その番組で、「ぜひ、ちゃぷちゃぷレコードの音楽を流したい。しかし、CDを買うお金が無い。ウクライナでは、CDを二枚買うお金でひと月暮らせる。もし送ってくれたら、CDは必ず放送する。」と、書いてあった。ウクライナの空の下で姜さんの音楽が流れると考えると楽しくなった。早速CDを送った。すると、感想が寄せられた。嬉しかった。その後も、色々なCDを今でも送っている。ユーリ自身は、WIREに載ったことがあるらしい。自身アルト・サックスも吹くミュージシャンでもあるそうだ。仲間と演奏したテープを送って来てくれている。これが、面白かったのだ。音質が良かったらCD化したいくらいだった。サウンド・コラージュ的な音楽もあって、素晴らしかった。藤川さん、翠川さん、サブさんのトリオ「FMT」のCDを送ったら、「自分が考える理想的な音楽」といって、メチャクチャ受けていた。近頃、ユーリさんから音信不通になっていたので心配していたら、どうやら心臓が悪いらしい。「これが最後の手紙になるかも。」なんて書いてありショックを受けている。そんなユーリさんに、こないだ「コルトレーン・イン・ジャパン」を送った。病気の人にこんなハードな演奏を聴かせていいものかと思ったが、どうやら受けたらしい。ちょっと、ほっとした。ところで、どこでどうやって、俺のことを知ったのか、いまだに聞いていないなー。こないだ、このウクライナの地方都市のルーツクが、NHKに出てきたのだ。ここで、相撲のヨーロッパ選手権が有り、元貴ノ浪がここに行ったのを放送したもの。まさかルーツクを日本のテレビで見るなんて思いもしなかった。たまげたなー。そして、嬉しかった。

Yuriさん。下は、レーニン像。今では、珍しいらしい。

マリーンのコンサートで紅やんと再会するの巻。

下松でマリーンのコンサートが有った。たまたま家に帰っていたので、カミさんと行った。実は、チケットを二枚もらっていたのだ。ハイ。タダで聴いて見てしまいました。チケットを持っていたって家に帰っていなけりゃ行けやしない。それが、船乗りってもんだ。運良く行けてラッキーだった。もっと、ラッキーだったのが、ベースの坂井紅介さんが、バンドのメンバーで一緒に来ていたのだった。その頃、マリーンの歌う「Happy Talk」がTV・CMでしょっちゅう流れていて、会場は満席だった。「What’s New?」というCDも出たてだった。コンサート後は、長蛇の列(って程でもないが)でCDをお客さんは買っていた。マリーン本人のサイン(本当は、オートグラフという。違ったけ?)が入っているし、握手も出来るんだからそりゃ並ぶわなあ。俺も並ばせていただきました。実は、デビュー当時からのファンなのだ!確か、アルバム・デビュー前は「マリリン」と言っていたはずだ。その名でJAZZクラブに出ていた人と同一人物だと思うんだがなあ。銀座のJAZZクラブなんかに、「マリリン」て出ていたぞ。マリリン・モンローの熱烈ファンの俺は、「一緒にするんじゃねー。」とか悪態ついていた。コンサートは大盛り上がりの大盛況。俺も大いに楽しんだ。コンサート後、紅やんを係りの人に呼び出してもらい、久しぶりの再会をした。楽屋に通されて入ったら、鈴木宏昌さん(通称コルゲンさん)もいらしていた。コルゲンさんとも久しぶりの対面だった。以前下関のコンサートの時、酔っぱらったコルゲンさんは、「佐藤允彦だけがアレンジャーじゃね~んだぞ!」なんて言っていて、俺は返す言葉につまってしまった。マリーンのコンサート後の控室では、やっぱり酔っぱらっていて、「昔はなあ、俺達バンドマンは、札束でギャラをもらってたんだぞ!」(このセリフ、俺のおやじの「昔は船の運賃は凄かったんじゃ!」と一緒。その昔って~のが、戦後すぐだったりするが。今の船の運賃って、へたするとその頃より安かったりするんだ。参ったか!)なんて言っていた。紅やんが「そんな時代、また来ますかねー?」と言ったら、キッパリと「絶対来ない!」でありました。なんとも淋しいお話。でも、がんばろうね、紅やん!

サイン入り「What’s New?」

ツアー中の中山英二さん一行の、突然の来店にビックリするの巻。

ある日、だーれもいない店内でボーッとしていたら、店のドアが開く音がして四人のお客さんが入って来られた。「いらっしゃいませ。」と、水を出した時、お客さんの顔を見てビックリ!ベーシストの中山英二さんだった。実は俺、中山英二さんが「ジョニーズ・ディスク」からファースト・アルバム(LPです。)を出した時からの大ファンだったので、突然の来店に驚いたのなんの!「ツアー中だけど、カフェ・アモレスの近くなのが分かって、高速を降りて来たんです。」ということだった。なおさら嬉しいではないか。カフェ・アモレスは、地元民でも「どうやって行くのかよく分からない。」と言われる場所に有ったのだけれど、よくすんなりと来れたものだと感心。ツアー慣れってことでしょうか。二階の自分の部屋に飛んで行って、中山さんのファーストとセカンドLPを取って来た。すると、女性ピアニストの人が「わあー!中山さん若~い。」と、言われた。その女性ピアニストさんは、後日行われる佐藤允彦さんのライヴのチラシを見て、「私、佐藤さんの弟子なんですよ。」と言われるではないか。その女性ピアニストこそ、後年ビッグ・バンドを率いて大評判になり、モンク・コンペティションの作曲賞(授賞式の後ハービー・ハンコックにカタカナでサインをもらったとか。)を受賞した守屋純子さんだったのだ!今や日本JAZZ界を牽引する存在だ。しかし、この時隣に座っていたドラマーの人の名前が思い出せない。失礼。

中山英二さんのジョニーズ・ディスクからリリースされた2ndアルバム。このジャケットを見て守屋純子さんが「若~い!」と言われたのでした。このアルバム何度聴いたことか。今はCDになっているので、盤がすり減ることを気にせず聴きまくれますぞ。

なぜ天神町にあるスーパーの「アルク」はJAZZがかかっているの? この「アルク」が「秘密のケンミンショウ」に出た! ローカルネタですまん。

金さん、お猿さんに会えなくてガッカリするの巻。

毛利邸の「舞衣」での展覧会&ライヴを終えた金さん、崔さん、広瀬さんの三人は、次の演奏先の玖珂町(現在岩国市)まで俺の車で行った。行けども行けどものんびりした風景が続く。金さん、だんだん不安になって来た様子。「こんなところでやって客来るの?」と言い出した。だいたい金さんは、田舎はダメ。退屈する。シティーボーイなのだ。防府にしばらく滞在するというだけで、「田舎に長くいるのは嫌だー。」と誰かに言っていたとか。怪獣めぐらだっけ?「防府のような地方で、フリーのライヴをやるのがそもそも無理なの。お客が来ないでしょ。」なんて俺にはよく言っていた。でも、金さん。アケタの店でやって、ギャラが千円だったので、「本当はビールを飲みたかったけど、勿体ないからガマンしたの。」なんて言っていませんでしたっけ?都会のJAZZクラヴはいい。客が少なけりゃ、それなりにギャラを払ってりゃ済む。田舎でライヴとなると、こっちはギャラ+交通費+めし代と丸抱えだ。いつも大赤字になる。それでもやるんだから、まあ文句は言えない。田舎じゃこうでもしないと、自分が聴きたい音楽なんて永久に聴くことなくあの世行きだ。姜さんは、俺が赤字を抱える度に「末冨さん大丈夫?」と心配してくれた。「大学で教えている教授なんかより、末冨さんのやっていることの方がよっぽど価値が有る。」なんて言って下さった。それからしばらく、姜さんは俺の顔を見ると「プロフェッサー・スエトミ」と呼んでいたっけ。話が飛んだ。そうこうしていると、田んぼの真ん中に立派なホールがドカンと現れた。「なんでこんな所に!?」てな感じ。みんなで「わースゲースエゲー!」と言いながら入って行くと、今度の主催者、猿舞座の村﨑修二さんが「そんなことはありませんよ。手を叩いてみて下さい。」と言いながら我々を迎えて下さった。そんなことを言われるはずで、とにかくこのホールは必要以上に音が響きすぎるのだ。まあ、お客さんでいっぱいになるんなら、響きもかなり抑えられようが、フリー・ミュージックとなると、お客さんの数なんてたかが知れてる。案の定この日も、ホールはスカスカだった。金さん達の前座で、庄子さんの他は、みんな邦楽器の人達だった。この演奏が長々と続いて金さん達の持ち時間がどんどん減っていってしまい、金さん「僕らの演奏する時間が無くなるよ。」と心配そう。やっと、自分達の番となった。広いステージを三人が結構離れ離れになっての演奏となった。今回は大太鼓も用意されていたので、金さんはドンドコと気持ちよく叩かれていた。「舞衣」では、さすがに大太鼓を入れるのは憚れたので、使わなかった。この時のヴィデオを俺が撮ったのだけど、金さんが持って帰ってしまったので、まだ見ていない。さて、夜の打ち上げが凄かった!我々含めて結構な人数が参加したのだが、「焼肉だ!」と言って出てきた牛肉の量がハンパじゃなかった。バケツにドサっと入れてあるのだ!牛肉のサシミ!なんてのまで出て来た。ここは山口県じゃ有名な牛肉の産地が近いのだ。「高森牛」という。みんな他じゃ食べれない牛肉のサシミをバクバク食っていたが、俺は手を付けなかった。ちょっと抵抗があったのだ。とにかくみんな幸せそうな顔をしていたなあ。そこで、金さんは村﨑さんにお猿さんを見せてくれるように何度も頼むのだったが、村﨑さんは「いくら金さんの頼みでも、寝ている猿を起こすようなことは絶対出来ない。」と言われた。金さんも理解して諦められた。翌朝、金さんは一足先に宮島へと出発されて結局お猿さんには会えずじまいだったが、朝のんびり出来た広瀬さんは、お猿さんに会えて大感激したそうで、わざわざ防府まで電話して来た。俺は、打ち上げ後は、防府に夜遅くなったけれど帰ったので、お猿さんに会えずじまいだった。

後から聞いた話だと、コンサートは大赤字を食ったくせに、打ち上げでは大盤振る舞いをしたというので、村﨑さんは奥さんにこっぴどく怒られたそうだ。ははは。この打ち上げの時に村﨑さんの息子さん(耕平さん)に会っているのだが、まだまだ子供だった。その息子さんが、今では猿舞座の若頭として活躍されている。いつか、その姿を拝見したいと思っている。今は阿蘇に移っている「周防猿回しの会」の太郎さんは、息子さんとは従兄にあたるはずだ。息子さんのブログもあるので覗いてみて下さい。「猿舞座日記」で検索されれば出て来ます。村﨑さん親子の猿回しをぜひとも防府の人にも見せたい。いや、それ以上に自分が見たい。何らかの形で呼ぶぞ!

なかなか止めなかった前座。

中村明一さん(尺八)と八木美知依さん(筝)が防府にやって来られたの巻。

ある日、カミさんから船に電話がかかって来た。「中村さんていう人が、防府に行くから会いたい。って電話して来たよ。」ということだった。「中村ナニさんじゃ?」と不思議がっていたら、中村明一さんのことだったのでビックリ!なんでまた防府に?もう一つビックリが、一緒に来るのが八木美知依さんというではないか。益々「何で防府に?」だ。疑問符が頭の中を踊っている。 「会いたい。」と言われた日に帰ることが出来たので、泊まられているホテルに行ったら、八木さんと中村さんのマネージャーの女性から大きな花束を渡されてしまった。こんなことをされるのは初めてなので持ち方が分からず、大きな魚のしっぽを掴むように持ったら、やっぱり「魚じゃないんだから。」と、あきれられた。こんなんだから女性にモテないんだよなあ。「それだけが原因じゃない。もっとたくさん有る。」と、カミさんの声。中村さんとは20年ぶりくらいの再会で、色んな話を出来て楽しかった。ところで何故防府かというと、なんとなんと我が家を狭い海峡(ほとんど川くらいの幅。ガキの頃は遊び場だった。今どき貴重な干潟が残っている。だから、野鳥も多い。)で挟んだ向島(ムコウシマと読む。尾道にあるのはムカイジマ。)に有る「向島小学校」に尺八と琴の演奏に来られたのだとか。近頃のガキ(元へ、お子様達)は、このお二人クラスの演奏家の生が聴けるのかと、驚いた。中村さん曰く「教師側は、子供にも分かりやすい演奏を頼みます。と、依頼して来るけど、いつもの大人に対してやっているように演奏している。分からないのは教師の方。」でした。拍手拍手!ところで、中村さんとの出会いはというと、学生の頃のこと。河合明さんと中村さんのライヴが荻窪のマジェスティー・ルームという所で有って、河合さんに誘われて聴きに行った。デュオの即興や、自作曲、高橋悠治さんの曲(メアンデルだったか?)をやっていた。今でもこの時の録音を持っている。そこで知り合ってからは、あるマンションの一室の仲間内だけの集まり(結果そうなってしまったのか?)で、中村さんの尺八本曲の演奏をかぶりつきで聴くなどという贅沢なことまでしていた。あの頃からうまかったが、後年ここまでの存在になるとは驚いたり嬉しかったり。中村さんのエピソードで驚いたことが有った。池袋のあるホテルで皆でコーヒーを飲んでいたら、中村さんが「電話してくる。」と、公衆電話のところに行かれた。なにやら英語で話されている。「誰と話してるんですか?」と聞いたら、何と電話の向こうはオーネット・コールマンだったのだ!「200万円ならプライム・タイムで行くよと、言ってる。」と言うので、マジで金を集めてコンサートをやろうかと一瞬考えてしまった。もう一つエピソードを。カフェ・アモレス時代のこと。中村さんと渡辺香津美さんのデュオ・ライヴをやれることになった。今までアンダーグラウンドのそのまた奥底の連中(失礼。でも、即興って巷じゃ、その存在すら認知されていないんだぞ。)しかやってこなかったので、初めて渡辺香津美さんという防府市民でも100人は知っていそうな(JAZZじゃそんなもんだろう)ミュージシャンを呼べることになった。学生の頃は、新宿と六本木のPIT・INNによく聴きに行っていたもんだ。ようするに、大ファンだってこと。日程も決まって、さあ客集めだ!というところで、ライヴはキャンセルとなってしまった。CDのレコーディングが重なってしまったそうなのだ。そのとき録音されたアルバムが「おやつ」です。これ、傑作!

渡辺香津美さんのネタで、金さん崔さんがらみの話をひとつ。ある日、金さんから「今度PIT・INNで崔(金さん、呼び捨てです。)とやるの。もう一人加えたいの。末冨なら洋輔か香津美(ここも呼び捨て御免。金さんがそう言うんだから仕方無い。)のどっちがいい?」と聞かれたので、「香津美さん!」と答えた。で、本当にそうなってしまった。崔さんが音質がヨレヨレなるも、録音を送ってくれている。またあるときは、金さんと山下洋輔さんと渡辺香津美さんのコンサートの録音されたCD-Rを金さんからいただいた。「洋輔も香津美もメジャーで、レコード会社が大きいからこれをCDにすることが出来ないの。」と残念そうに言われた。しかし、後年金さんの追悼盤には、一曲なれど収録された。これ「ビグトリー」の大木さんの力に違いない。有難う!しかし、俺「このコンサートの録音、丸ごと聴けるもんね。」と、威張る!金さんの方といえば、俺が作った吉沢さんのCD「音喜時」(二曲目は金さんとの29分近い激演を収録)を常に持ち歩るかれていたのだ。これ本当の話。「作ってくれて有難う。」と何度も言われた。こっちこそ有難うです。さて、八木さんと金さんのネタもひとつ。金さんは、斉藤徹さんが何人もの女性筝奏者を集め、金さんも含めてライヴを行った。この時、筝奏者の皆さんは、筝を大事に扱うなんてどこかへブッ飛んでいるのか、筝の「じ」(パソコンで変換してくれないんですけど?)をスティックでバチッと飛ばして刺激的な音を立てるという今では「古典的」奏法を行っていた。その「じ」が金さんの所へ飛んできたそうで、金さんは「女の子達は危ないの。二度とやらない。」と、半分嬉しそうに話されていました。おしまい。

待望の尺八本曲のCD。日本人なら一家に一枚!

その後、八木さんは益々パワー・アップされて、ペーター・ブロッツマンとも共演!

金さんにいただいたCD-R。コンサートがおしゃべりも含めて丸ごと収録されている。

金大煥さんの追悼盤。 上のCD-Rから一曲だけ収録されている。

二曲目が金さんとのDUO。

我が家から見た向島小学校。子供の頃は潮がひると干潟を渡って島側に行けた。今は、真ん中を漁船が通れるように掘ってあり行くのは不可能。向島は、若い者が出て行ってしまって年寄ばかりになってしまい、小学校も子供の数が数える程になってしまったとか。

校庭には大きな早咲きの桜の木が有る。夕暮れ時に行ったので、写真が暗い。

小学校の西にある公園には桜がたくさん植えてあり、春は桜まみれになる。

小学校の南側の景色。お寺には、こんな立派な木が有る。

東側は漁港。

幻の歌手、J・J・Mi。

金さんが、「いい歌手がいるの。」と、このCD-Rを渡してくれた。「金さんが、歌伴?」と不思議がっていたら、歌手といっても、歌を歌うだけじゃなくて、サインホさん達ヴォイス・パフォーマーのように即興ヴォイスが出来る女性だった。「DUO・42」の42って何だろうと思っていたら「僕とJ・J・MI(ジェイジェイ・ミと読む。)の歳の差なの。」とのことでした。笑うしかない。金さん結構この呼び名を自分でもウケていたみたい。「金さん、面白いのが現れましたねー。いつか連れて来て下さいよ。」と言うと、「それがダメなの。彼女の父親が音楽の道に進むのを絶対に許さないの。彼女は今大学で陶芸を勉強していて、そっちに進まなければいけない。ミュージシャンは韓国では、「ペクチョン(たしか、こう聞こえた。)と呼ばれて、蔑まれているの。僕の家では、テーファンがあんなになったのはデーファンのおかげだ。と言ってよく怒られたの。」と言われた。どうなんだろう?今でもそんなことを言ってる人はいるのかなあ?今じゃ、韓国からたくさんカワユイおねえちゃんグループが日本に進攻(まさに!)して来ている時代だからねえ。日本のアイドルよりもよっぽどカワユイと、おじさんは思います。