昔話 2

金大煥さん、姜泰煥さん、崔善培さんとの出会いについて。

グローブ・ユニティ・インタビュー

イスクラでは、ゴローブ・ユニティ来日公演の際に、「パフォーミング」用にオーケストラ・メンバーに紙面インタビュー用紙を配り、得られた回答を元に2回ほど掲載いたしました。まだスティーヴ・レイシーらのが有ったのですが、パフォーミングそのものの発行が途絶えてしまいました。

イスクラの「パフォーミング」

1980年を前後して、リベレーション・ミュージック・センター「イスクラ」で発行していたフリーペーパー「パフォーミング」を紹介いたします。私は、1979年から編集に参加いたしました。

夏のワークショップ’93 奇々怪々楽器団~想像の楽器制作&コンサート。

1993年、水戸芸術館で「奇々怪々楽器団」のコンサートが開かれた。「聞いたことがないなあ?」と思いの方がほとんどだろう。これは、子供達を集めた即興演奏のコンサートだった。しかし、子供を集めてきて「即興のワークショップ」をしました。というレベルの話ではなかった。演奏する楽器を自分の手で作り、それを使って即興演奏をしようという試みだった。楽器制作は美術家が助っ人に入り、演奏の方は、吉沢元治さんがコンダクションをされた。何とも贅沢な体験をさせたものだ。このヴィデオを、防府にライヴで来られ時に、吉沢さんや怪獣めぐら達と一緒に見た。演奏の時は、巻上公一さん、永田砂知子さん達の助っ人も参加してのものだった。彼らが出す音のおかげで、結構聴けるものにはなっていたのだが、いっそ助っ人なしでやってみても、どうなるのか興味も有る。一人「小ハン・ベニンク」(この表現、分かる人には分かるだろう。)がいて、作った「楽器」もユニークで、体全体を使って大活躍だ。今頃イッパシのアーティストになっているのかな?近頃、もう出来上がったミュージシャンやアーティストを呼んでライヴとかをやることよりも、こういった試みをやる方に興味が行っている。だが、現実は「どこで?」、「資金は?」、「どうやって子供を集める?」等々問題山積みだ。

高橋悠治さんのGoldberg Variations&浅見光人「Gloria in Excelsis Deo」

昔カミさんが発行していた「ちゃぷちゃぷ通信 小銭deポン!」の第2号(1998年2月発行)にこんなネタを掲載。

すると、高橋悠治さんご本人から何の前触れもなく突然このCDが送られて来たではないか!もう驚いたのなんの!嬉しかったのなんの!これ、カミさんの家宝なんです。サブさんに言わせれば「高橋さんは自分のレコードだってホイホイ人にあげちゃうんだよ。自分は一度聴いたら必要ないんだよ。だから気にせずもらっといたらいいよ。」とのこと。と、言われても天下のYujiさんなのだ。家宝にしてどこが悪い!って、誰も文句言ってないか。すると今度はイギリスのEvan・Parkerさんから「Yuji Takahashi Plays JohnCage:Sonatas And Interludes 」という1965年にストックホルムで高橋さん27歳の時の録音のCDが送られて来た。このCDの存在を知らなかったので、凄く嬉しかった。喜んでいたら浅見光人さん(ちゃぷちゃぷレコードから無伴奏ソロ・サキソフォン・アルバムをリリース)からも、同じCDが届いた。東京のレコード店にはすでに売られていたみたいだった。同じCDなれど、せっかく頂戴した物なので、両方並んで棚に収まっている。だから今ではどっちがどっちから送られて来たのやら分からない。指紋鑑定でもするか。

    1965年高橋さん27歳の時のストックホルム盤。

1975年に録音された日本コロムビア盤が、こちら。10年前の録音より、全体的に少しテンポがゆっくりしている感じ。

   高橋悠治さん。サブさんと即興演奏をされた時の写真。

浅見光人;アルトサキソフォン 無伴奏アルバム。「Gloria in Excelsis Deo」。(CPCD-004)2001年。

彼は、スティーヴ・レイシー、スティヴ・ポッツのお弟子さんだったこともあるImproviserだった。吉沢元治さんのボーヤだったこともある。もうバリバリの即興演奏家になるだろうという周囲の思惑から、すーっと離れ、自分の音探しの旅に出た末にたどり着いた境地を一枚のアルバムに収めた。カフェ・アモレスでの演奏は高木元輝さんとのDUOと、金大煥さんのワークショップ、一楽儀光さんらとの「Pieces of Sky」等々で個性豊かな演奏を聴かせた。だが、それはすでに彼の音楽ではなくなって行った。元々エネルギー・ミュージックとは無縁の感性の持ち主だった。このアルバムではHidalgo,Tyrone,そしてビートルズの「I Feel Fine !」!以外はすべて彼の自作曲を演奏している。アルトサキソフォンの音の一音一音を慈しむような演奏だ。ジャケットの表も内も、ライナーノートも全てが美しいアルバム。録音は横浜のリリス・ホール、フィリア・ホール、大倉山記念館ホール、横浜イギリス館ホールを使用。

背中を見せているのが浅見光人さん。左から、坂本悦子(旧姓)さん、川端稔さん。右が一楽儀光さん。カフェ・アモレスでのライヴ。

   山口市の村田酒店2Fでのライヴ。1993年頃か。

「インターナショナル 未来音楽祭’82 at 増上寺ホール 11月18日

今から31年前(なんと!俺も「どなたかのお子さんのおじいさんですか?と言われるはずだ。)、増上寺ホールで「インターナショナル未来音楽祭’82」という所謂電子音楽のコンサートが有った。河合明(孝治)さんが、これに出品?される作曲家の嶋津武仁さんとその頃お付き合い(変な方じゃなくて)があって、俺も誘われて行った。というか、その頃が一番電子音楽に興味を持っていた頃だった。せっせとそんなLPを漁っていた。あのフラットで大きな会場が満員に近かった。四方にスピーカーが設置されていて、音が4chで飛び交うようになっていて感心した。実際この効果は凄くて、頭の上から音が落ちてくるような感覚になったり、音が走り回ったりするような感覚になれた。その時録音したテープが出て来た。結構聴ける音質だったが、あの音が会場中を飛び回る感じはしょせん2chでは感じられない。嶋津さんの隣で録ったのだから「公認」ってことか。あれから30年くらい経った。その間エレクトロニクスの発達は目覚ましく、クセナキスの「ペルセポリス」のような音響は、誰にでも自宅で作り出せる。でも、周波数をほんの少しずつずらした音を1000回重ねるなんてことは、まだまだ無理だ。それなりのコンピューターが必要になるらしい。それも時間の問題か。今は、クラシックの人が考える「電子音楽」とは違うフィールドでエレクトロニクスを使った音楽なんてザラにある。でも、会場を4chで使うというのは、まだ少ないだろう。未だにステージ上の2chだ。といっても、これはやりたくても現実的じゃないのだ。ようするに「銭」の問題。だから、このコンサートは素晴らしい。初めての体験だった。万博の鉄鋼館(だったか?)では360度スピーカーを張り巡らしたコンサートがあったらしい。シュトックハウゼンだったかなあ。どうすりゃ足の下にスピーカーが置けるんだ?さて、このコンサート。面白かったのが、1曲目。電子音楽とは全く違う子供達の登場。学芸大附属の小学校の生徒が出て来て、生活上で何気なく聞こえてくる人の声を再構成したような言葉を子供たちが発する。付け加える他の音は最小限。こんなことを小学校で教えているのか?と、驚いた。その後は、上原和夫の音響と幸村真佐男のコンピューターグラフィックによる作品、ジョン・M・チャオニングの曲、嶋津武仁さんの曲、南弘明の曲(これは芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を語りと電子音で構成したもの)、松平頼明暁の曲(篠崎功子のヴァイオリンも加わる。)、ペーター・ベイルの曲の6曲が演奏?された。問題も感じた。いくら音響が面白くても、目の前には増上寺ホールの壁やスピーカーしか見えていない。目のやり場に困るのだ。(12月21日の「ドラ☆美保」の美保ちゃんのダンス中、客としては、どういう顔をしていたらいいか困るとの指摘を受けた。~好きにしたら。)目は退屈している。この問題はライヴエレクトロニック・ミュージックが始まった60年代からも言われ続けていた。だから映像が加わったり、ダンスが加わったり、生楽器も共演したりという風になって行った。だが、純粋に音だけでと、こだわるのも作曲家のサガ。松平頼暁の「アキュミレーション」でヴァイオリンが加わったときは正直ほっとした。なにより曲がよかった。おそらくヴァイオリンの音だけをオソロシイ数重ねて行ったのだろう。刺激的な曲だった。今のデジタルな音は、スピードは速いのだろうが、音の存在感は薄い。電子音楽でも、具体音が多い程俺は面白く聴ける。古い友人だからよいしょするワケじゃないが、一楽儀光のまだ見ぬ最新兵器で作られる世界は、もう音楽だのアートだのロックだのノイズだのポップだのといった「 」付の世界を軽く飛び越える可能性を秘めている。あとは、あのいいかげんな性格をなんとかすれば歴史に名を残せるかもよ。ははは。

           演奏中の一楽師匠。

デレク・ベイリーのライヴがお流れの巻。

これまで色々なミュージシャン、ダンサー、写真家等々と知り合え、たくさんのライヴ等を企画して来たけれど、実現しなかったor出来なかったライヴも有った。その中でもデレク・ベイリーが流れたのは痛かった。ある時ほぼ実現するところまでこぎ着けたことがあった。デレクのソロ・ライヴということになっていた。ギャラは勿論高い。でも、Alexさん、Mishaさん、Hanさん、Evanさん、Leoさん、佐藤允彦さん、高橋悠治さん、韓国三人衆等々まで来て、あとはDerek・Bailey、Steve・Lacy、小杉武久さん、富樫雅彦さん・・・と、なるワケだ。さすがにオーネット・コールマン、セシル・テイラーは考えが及ばない。デレク・ベイリーのライヴが自分の店で出来るなんて、興奮するなという方が無理。でも、結局流れてしまった。その理由はと言うと。ある日、吉沢元治さんが、デレク・ベイリーの召還元の事務所だかなんだかにいました。呼んだ連中が「都内じゃ金にならないから、地方(つまりカフェ・アモレス)でその分取ればいい。」とかなんとか話していたらしい。それを横で聞いていた吉沢さんがブチ切れた。で、電話して来られて、「末冨君こうこうこうだから、デレクのライヴは止めだ!」と、怒って話されました。俺も頭に来たけれど、実はよくある事というか、そういうものなのです。現実は。このライヴはソロだけれど、デレク・ベイリー一人で防府まで来るワケにはいかないので、通訳兼マネージャーで、なんと吉沢さん(ほっといても+怪獣めぐら)が同行するということになっていた。「ならDUOだー!」と行きたいところなれど、それは「ギャラ払えません。」という事を理解しての吉沢さんの好意だった。しかし、残念だったことには間違いない。結局ライヴは実現することなく、その後デレク・ベイリーは亡くなってしまいました。都内のJAZZクラブでは、普通チャージバックだ。富樫雅彦さんがPIT・INNに出るときは、ギャラが払われたと聞くが、これは例外的なこと。そこにいくら外国から来たにせよ、たいした報酬にはならないってワケだ。そこで地方回りをする時は、ギャラ+交通費+宿代+メシ代を主催者が全部払うことになる。俺達はこれが当たり前と思ってやって来た。そうでなきゃミュージシャンは生活出来ない。カミさんに食わせてもらうというパターンも多いが・・(あっ、今の俺がそうだ・・・)。そして最後は家を追い出される!誰とは言いません。

            デレク・ベイリー。

         上村二男さんがヨーロッパで撮影。

金大煥;演奏50周年記念音盤

いつどこでだったのか覚えていないのだが、金さんにこんなCD-Rを渡された。金さんの50周年記念のコンサートが有って、その録音だった。山下洋輔さん、渡辺香津美さんとの共演を収めたもの。演奏だけじゃなくて、三人のステージ上でのお話も収録されていた。デュオあり、トリオあり、おしゃべりあり、見れないが書の実演ありと、その場にいれなかったのが残念! 演奏も渡辺香津美さんがいることで、いつものフリージャズの金さんだけじゃなくて、「これ、ギターだけで作れるの?」という一人オーケストラのような演奏(韓国の民謡とかもサンプリングされ出て来る)に金さんがタイコで絡む場面もあって、それは楽しいコンサートだっただろうと思う。しかし、金さん曰く「山下も香津美もメジャーで事務所も大きくて、この録音をCDに出来ないから困っているの。」とのことだった。しかし、後年リリースされた追悼盤には一曲だけトリオ演奏が収録されていた。ビグトリーの大木さんのなせる技!これには姜泰煥トリオの録音も入っていて有り難い。

            追悼盤

 

内ジャケットの崔善培さんの写真は私の撮ったものです。追悼盤にこういう形ででも関われたのは光栄です。というか、生前ちゃぷちゃぷレコードで金さんのリーダー作を出したかった。

追悼盤に収録されていたソロは、このFM番組用に録られたもの。金さん独自の理論?「ワン・ビート」について吉沢さんと語られている。故ブッチ・モリスさんとの演奏も少し聴けます。でも、全員あの世の住人になってしまった。とにかく深い話が聞けるFM放送です。

しかし、これ夜中の3時の放送だった。一体何人が聞いたのかねー?

 

金さんのBMWで移動中に後姿をパチリ。当時、韓国でこんな車を乗っていたのは、もう一人有名な俳優がいるだけだった。時間給で換算すると金さんは当時の韓国では一番の高給取りだったそうだ。そんな金さんも、日本のライヴ・ハウスに出ると「ギャラがたったの1000円だったから、喉が渇いたからビールを飲みたかったけど、勿体ないからがまんしたの。」って事になる。ちなみに俺はちゃんとギャラを払ってたぞ!と威張る。が、韓国でのギャラを聞いたら「俺こんな人と仕事してんだ!」だった。実感したのは、韓国に行った時TVに出ている姿を見たり、TV出演時のヴィデオをもらった時。決っしてTV向きの演奏をしているわけじゃないのがいい。ちょっと日本じゃ考えられない。韓国ではレオさん、朴さん、姜さんが演奏したTV放送も有った。こんなことNHKでもやらないぞ。ヘイトスピーチなんぞしているバカタレ共、韓国にはこういう姿もあるんじゃ!

Yo Miles Project Report...Feb.27.1998~by牧野はるみ

これは、1998年のヘンリー・カイザーさんとワダダ・レオ・スミスさんのプロジェクト「Yo・Miles」のCD発売前に、牧野はるみさんから送られて来たレポートです。当時手書きで書いて発行していた「ちゃぷちゃぷ通信」に掲載する予定でしたが、なぜか今までお蔵入りしていた原稿を公開いたします。

                        Yo Miles Project Report

 

 マイルス・デイヴィスはどこに向かって吹いていたのか?

それは、ミュージカル・モーメントに向かってである。

ミュージカル・モーメント;その瞬間を目指す幾万ものミュージシャンによって、音楽は創造される。その現空間は未来への流れの中で混沌たる世をも巻き込む、時間に輝かしい句読点を付ける人間の行為である。

 

 ヘンリー・カイザーによって企画されたこのCDは、帝王マイルス・デイヴィスの蓮台に供えられる最も新しい供物である。偉大なるアフリカン・アメリカンのミュージシャン達の履歴を遡る時、アメリカ国内ではその人間のあまりの生の重さ故、醜聞として取り上げられる様な面ばかりが話題になり、それだけで一般に理解し難い仕事をする白人ではない人間を狂人扱いする事がある。マイルスも残念ながら、彼自身に接した筈の身近にいた人々の証言や噂話は、私達ファンをがっかりさせるものが多く、彼が死んだ時ガールフレンドが家の中の物をそっくり頂戴して消息を絶ったなどという、聞かなくてもいい話までニュースになってしまうのは悲しい事だ。肝心なのは創造音楽そのものであり、人間によって創られた、この最も神に近いものが私達の生きるこの世に奇しくも与えられ、テクノロジーの進歩によって後世にも伝えられて行くという事実である。

 Yo Milesの録音はバークレーのベイ・レコーズで四日間に渡って行われた。ミュージシャンはヘンリー・カイザーによって選ばれた面々である。曲目は全てマイルス・ミュージック(ワダダ・レオ・スミス作曲のバラードを除く)。マイルスの曲に挑戦すると言うよりも、ミュージシャン個人として、アンサンブルとして、いかにマイルスが目指したミュージカル・モーメントを表現出来るかが第一の課題である。1970-’75年のピースで構成されている事からも判る様に、エレクトリック・サウンドに現在進行形のコンピューター処理を加え、ヘンリー・カイザー好みの創造音楽がここには示されている。レコーディングの総指揮はヘンリーだが、トランペットのワダダ・レオ・スミスが各ミュージシャンの中心に陣取り、自発的にキューを送りマイルス・ミュージックを緊張感あるものにしてゆく。このレコーディングでワダダは初めてワウワウを使用、擬マイルス音に陥る事無く、海の底から溢れて来るようなハムがかかった音がなかなか美しい。

 マイルス級の音楽家、ましてやトランペッターとなると、この世に存在するか?と考えてみて、このプロジェクトの為にヘンリーがワダダを選んだのは正解だったと思う。上手いトランペット奏者は星の数程居ても、アメリカで50年以上人種差別に被りながらも芸術を信じ、自己の音楽論を持ち、作曲家であり一流の演奏家でもあり、ミュージカル・モーメントを把握するセンスがあるとなると、ワダダ・レオ・スミスとビル・ディクソンくらいしかもう頭に浮かばないのだが、このプロジェクトはエレクトリック・サウンドという事を考えるとワダダに軍配が上がるか・・・・と手前味噌ながら合点がいく。(これはヘンリーから聞いた話ではなく、私の想像)プロジェクト側からのスコアの配布は無く、参加ミュージシャン個人が曲目を勉強しリハーサル。そしてレコーディングに臨んだ。参加ミュージシャン中ワダダ、ヘンリー、ロヴァ・サキソフォン・クォーテット、ニルス・クレインは演奏活動も長く日本でもお馴染みだが、エレクトリック・ベースのマイケル・マニングの演奏が素晴らしく、耳に木霊し続けるその音は、これらのマイルス・ミュージックの心臓となり、力強く規則的なエネルギーをこのCD全体にもたらしている。

 モンク、ミンガス、ハービーニコルズ、古くはニーノ・ロータ迄、二番煎じに多大な期待をかける人はあまりいないが、ここはマイルスらしく我々も感性でミュージカル・モーメントを経験してみてはいかがだろうか?

 

牧野はるみ (1998年に書いて末冨にファックスした文章を校正したもの)

             おまけ

    Henry Kaiserさんちのゴロニャン 「みそ」ちゃん。

上村二男「ジャズレコードブック フリージャズ」

フリー・ジャズ・ファンのバイブル!般若心経!?の「ジャズレコードブック フリージャズ」である。上村二男さん(我々の間では「ガジさん」)の気合と根性の「作品」である。776ページに渡って、フリー・ジャズのレコードのジャケット写真、データがびっしりと掲載されている。定価は1985年当時で¥10000! それでも完売してトントンという値段だった。イスクラの小原さんが相当手伝ったとはいえ、ほぼ自力で企画、編集、版下、製版、出版をしたのだからたいしたもの。おまけに、この本、この後part 2&3と出ているのである。これ一冊分のタイプを打つ為に、タイプライターを3台潰したそうだ。ガジさんは、フリューゲルホーン奏者でもあった。吉祥寺の「マイナー」で広瀬淳二さん、永野秀一さん(b)とのトリオ演奏(途中小西ヤス飛び入り)を1980年6月6日に聴いたのが最初の出会いだった。そこにイスクラの面々と聴きに行ったはず。当時のイギリスのINCUSで聴けるような即興演奏だった。その後は、ガジさんのアパートに遊びに行ったり、一緒にデンスケ担いでライヴに行ったりしていた。ガジさんは、印刷工場でガシガシ稼いでは、突然辞めて、その間貯めたお金を持ってヨーロッパに行って半年くらい滞在するという生活パターンを持っていた。ヨーロッパでは色々な所でコンサートやライヴを聴き、写真を撮り、デンスケで録音をし(そんなテープが2000本を下らないはず。)、Evan・Parkerさん宅に転がり込むなんてことまでしていた。Evanさんに、俺がガジさんの友人だと分かると「ヘンな友達持っているなあ。」と、言われてしまった。そう、相当ヘンな友人です。ヘンだからこそ、こんな儲けにもならない本を残せるってもんだ。ヘンは文化を作るのである! シュリッペンバッハさんは、この本を見て凄く欲しがられたが、すでに売り切れていた。

1997年春までリリースされたアルバムで打ち止め。もうこの頃になると、どこまで掲載してよいのやら分からない状態になっていた。それほど即興といっても多様化して来ていた。ノイズをどこまで掲載するか、これは難しい判断だった。

1982年12月の高柳昌行さん。

1982年12月に、2度高柳さんのライヴに行っている。82年12月といえば病気療養から復帰された月のはずだ。12月1日新宿PIT・INNで、前半が高柳さんのギター・ソロ、後半が「アングリー・ウェイヴス」というベースの井野さんとドラムの山崎さんを加えたトリオだった。PIT・INNは超満員だった。客席には渡辺香津美さんらの顔も見られた。ソロはTBMからLPがすでにリリースされていた。ソロは正に一音の重みをヒシヒシと感じさせるものだった。一音が太くて重いのだ。そこに意識的に起こしたハウリングを絡ませる。ギター・ソロは星の数程有れどベイリーと高柳さんが双璧!両横綱! セカンド・セットのトリオは、この時は初披露だったと記憶している。こちらは、ノイジーなニュー・ディレクションとは違いある程度テンポの一定しているフリー・ジャズ。ジム・ホールとデレク・ベイリーの中間点ではどんな演奏になるかを具現化したものと思えばいいと思う。この日のソロの方は、近年CD化されたが、トリオの方はまだだ。乞うCD化!

この月2度目の高柳さんのライヴは、28日キッドアイラック・ホールでの、ニュー・ディレクションの演奏。高柳さん、同じくギターの故飯島晃さん、そして山崎さんのドラムだった。サックスもベースもいないトリオだし、2ギターだし、何かこれまでとは違う演奏が聴けるだろうと、期待してでかけた。暫時投射、集団投射のあり方は変わりなかったが、違ったのは音だ。2つのギターからは、正にエレクトリックな、そしてエレクトロニックな音響が発せられ、後年のノイズに繋がる音が聴こえた。PIT・INNでは超満員だったのに、こちらのレギュラー・コンサートは、客は俺と今は亡き俳優の殿山泰司(字が間違っていたらごめんなさい)さんと、もう一人あんちゃん(こいつが、録音中のマイクを蹴っ飛ばしてしまった)だけだった。こういったライヴに顔を出さないやつはファンとは言わせない。

        高柳昌行さんと山崎泰弘さん。

2セット目の録音。あの頃は客席で録音しようが写真を撮ろうが何の文句も言われなかった。それどころか、遠慮してマイクを椅子に置いていたら、店員さんがわざわざマイクをテーブルの上に置いてくれたくらいだ。だから、「・・・Live at PIT・INN」という録音が我が家にはたくさん有る。なぜPIT・INNかと言うと、アパートから歩いて行けたのだ。終電を気にしなくてもよかった。当時のPIT・INNの演奏は前後半合わせて3時間くらいやっていたものだったし、それが出来ないバンドは出演出来なかったと思う。クラヴやロックの小屋みたいに、一晩に何バンドも出るのとはワケが違う。一つのバンド(中にはDUOでも)で3時間は持たせられないとダメな時代だった。

            井野信義さん。

1セット目がCD化された! これはCDの裏ジャケットの写真。よくぞこんな写真を探して来てくれたもんだ。懐かしい! お願いだから2セット目もCD化して下さい!

こちらは82年12月21日、横浜エアジンでのソロ・ライヴ。

トリオ「アングリー・ウェイヴス」1985年の録音はCD化されています。

この日が「ニュー・ディレクション」復帰第1回目になるのかは忘れました。演奏後、高柳さんに話さなければいけない連絡事項があって、2人で話をしたのだけれど、大音量を浴びていたので耳がトンでしまっていて、自分の声がモニター出来なかった。

高柳、飯島&山崎による「ニュー・ディレクション」のCDが出た!83年8月14日、場所は同じく「キッドアイラック・ホール」。

これは1978年2月10日、渋谷の「ジャンジャン」での録音。

これには行っていない(まだ防府の高校生)ので、多分イスクラの小原さんに貰ったテープだったのだろう。よく覚えていない。メンバーの名前が書かれていない。

崔善培 in Japan '95

1995年、崔さんを日本に呼んでお江戸で2ヶ所演奏してもらいました。録音してCDを出そうという計画だった。まずは、六本木に有った「ロマニシェス・カフェ」で、崔さんの他金さん、吉沢さん、広瀬さんの4人。副島さんが自身のDATで録音して下さいました。そして、新宿PIT・INNでは、崔さん、梅津さん、井野さん、小山彰太さんの4人。こちらは、PIT・INNさんにDATを渡して録音していただきました。金さん達との演奏はデュオ、トリオ等々と組み合わせを変えたフリーな演奏。梅津さん達の方は、カルテット演奏のみで2ステージ。こちらも勿論フリーな演奏だけれど、金さん達のよりは、カタチが存在し、「バンド」の演奏といった感じ。JAZZの香りもします。この2つの録音を合わせて2枚組CD「崔善培 in Japan'95」なんて考えたのが裏目に出て、結局未だにリリース出来ていない有様。実は、その前にリリースの約束をしながら出来ていないミシャさんとサブさんのCD(19年ぶりにやっと「逍遥遊」として出せた。)のことがずっと頭の中に有り、「あれを出す前に他のを出すわけにはいかないなあ。」と考えていたのだった。崔さんは「あれまだかなあ。」と思われていたはず。それから3年経って、「崔さんのCDを出すのなら、ソロが一番。」と考えが変わって、98年に山口市の「C・S・赤レンガ」を借りてトランペットの独奏による「自由」を録音することになったのでした。その後の崔さんは、エレクトリック・トランペットも始められ、どんどん前に進んで行かれました。

これらの録音を含め、90年代に録音している数々の音源をまとめて「ちゃぷちゃぷレコード 90年代アーカイヴ集」とでもタイトルにして、10枚組CDでも出したい!

     金さん、高木さんと共演した時の崔さん。

            CD「自由」。

ギュンター・クリストマン&デトレーフ・シェーネンベルク 初来日!

西ドイツ(当時は東西分かれていた)からは、ギュンター・クリストマン(tb,b)&デトレーフ・シェーネンベルク(ds)がやって来た。困ったことに80年だっかのか81年だったのか、82年だったのか思い出せない。知っている人は教えて下さい。なにしろチラシにも書いていない。4月上旬なのは確か。ハンさん&ブロッツマンほどではないにせよ、こっちはこっちで「じぇじぇじぇ×78回」くらいの事件だった。「ヨーロッパ・フリー・ミュージックのハード・コア」がうたい文句だった。「ハード・コア」の文字に一瞬勘違いをしそうになったぞ。4月6日の増上寺ホールに行くよりも、俺は4月11日(俺の誕生日。どうでもいいけど。)の新宿の「タロー」(その後閉店)でのライヴを選んだ。北新宿に住んでいたので、遅くなっても歩いて帰れたし、なにより狭い空間でかぶりつきで聴いてみたかった。この日は佐藤允彦さん(勿論当時は面識なんて無い)がゲストだった。最後の方に少しヴァイオリンの白人が共演したが、誰だったのか覚えていない。

客席は信じられないほどの大入り満員。レコードで聴けるあのトロンボーン&ベースとドラムが目の前で聴けるんだから、もう鼻息荒かった。当時はまだ「外タレ何でも土下座」の時代。でも、いい演奏が聴けりゃいつでもどこでも土下座の一つや二つしまっせ!(ウソ)今も昔も、トローンボーンはクリストマンが最高!ベースも面白い。「豚の鼻息」とぬかしたヤローもいたが、あのブヒブヒが気持ちいいのだ。対するシェーネンベルクもちょいと似たドラマーを探すのが難しいくらい個性的な演奏だ。結構このご両人対照的な演奏をする。そこがいいのだ。佐藤さんも、このキレ味鋭いDUOユニットに、ズバッと切り込んでジャパニーズとしては爽快だった。

翌日はFMT(翠川、藤川、サブさんのトリオ)が共演だったが、貧乏学生には行けなかった。おかしかったのが、その後のJAZZ雑誌でのライヴ評。「つまらない。燃えない。山下トリオなら最初からピークが続く。不完全燃焼。」みたいな表現だった。「燃える闘魂フリ-・ジャズ」以外は拒絶反応を示していた者が結構JAZZ・マスコミにはいた。今じゃ、それどころかレコード会社の提灯持ちみたいなのが多くて、フリー・ジャズですら拒絶反応をしめす輩ばかりだ。Improvised・Musicに至っちゃ存在すら知らないんじゃなかろうか?そんなんだから、もう何年もジャズ雑誌を読んでいない。立ち読みすらしないなあ。だいたい本屋に売っていないなあ。それ以上に本屋がどんどん無くなって行っているもんなあ。

チラシの裏が面白い。とっくに閉店した店や、今でも続いている店が載っている。

ペーター・ブロッツマン&ハン・ベニンク in Japan '80

1980年4月、ペーター・ブロッツマンとハン・ベニンクが初来日し、数か所でコンサートを行った。今でこそニュースにもならないが、当時ヨーロッパ・フリーのバリバリの最前線が日本にやって来てコンサートを行うなんて、それこそ「じぇじぇじぇ×184回」の事件と言っていいものだった。俺はイスクラの面々&その周辺人?と共に、中野文化センターとルーテル市ヶ谷の2公演に行った。そこでは当時のEEUが共演した。当時のチラシは、まるで5人の手配書みたいだったなあ。演奏は、5人による完全即興(と、あの頃呼んでいたと思う)。もちろん演奏のきっかけになるテーマすらない。この表現は今だから笑えるが、あの頃のJAZZ雑誌では、普通に使われていたフレーズ。フリーと言ったって、PIT・INNあたりのライヴでは、テーマがあって当たり前の演奏ばかりだった。まあ、そのくらいじゃないと出演させてもらえなかったのだろう。もっとアンダーグラウンドの世界じゃ、当たり前だったが。この来日では、ハン・ベニンクさん(知り合いだから「さん」付け)は、自前のあのユニークなドラムセットをフル装備で持って来ていた。でも、ドラムの前に座るのは三分の一あっただろうか。ブロッツマンより上手いんじゃなかろうかと思わせるサックスを吹いたり、トロンボーンを吹いたり、ピアノを足で弾いたり叩いたり(ホールの人は青ざめた・・?)、床を叩いたり等々、やりたい放題の大暴れ。はっきり言って他のミュージシャンはかすんで見えた。勿論ブロッツマンの馬力は東アジアの民には不可能であろうが、「限界が見えたか?」と正直思った。でも、生で聴くとそりゃあ凄いでよ!(と、山口弁)

中野文化センターの時の録音。もちろん我が家からは一歩も出せませんし、お聴かせ出来ません。あしからず。

        コンサート後の後片付け。

このヴィデオは、あの銀ギラギンの豪華ジャケットのLP「厚木コンサート」のフル映像。上村二男さんが主催者の了承をもらって俺にくれたのでした。家宝です!

イスクラでは、ブロッツマンさんにインタビューを敢行! 寿司屋にゾロゾロ入っていってインタビューをしたのだが、皆ビンボー人ばかり。寿司屋に行っておきながら、ビール数本だけ注文。なんてやつらだ!

ハン・ベニンクさんはインタビューを拒否。「音楽で全てを語ってる!」と、怖い顔して(と、こっちは勝手に思い込んだ)言い放った! 実はハンさんてとても楽しい人なんだけど、この頃は坊主頭で髭づらで、おまけに198cmとでかいし、「気難しくおっかない人」と、こっちが勝手にイメージしていただけだった。

広瀬、本木&諸岡 part 2

           本木良憲さん。

            諸岡範澄さん。

演奏がどこへ向かうワケでもなく、一見とっ散らかっているように感じるだろうが、そう「とっ散らかっている」のです。ある一点を目指して突き進むそれまでのFREE JAZZとは正反対の即興演奏。もはや「FREE ・JAZZ」のカケラも感じさせない。扱う楽器やガラクタも、とっ散らかしたまんま。俺は、ここに何か大きな変化の兆しを強く感じたのでありました。

      LP 「CHI-CHI-CHI-NNGACAH」。