金野吉晃/ONNYK's Essay&Comment

即興を共有する。

1.ジョン・スティーヴンスという人

 この文章では、英国のドラマー、コルネット奏者、ジョン・スティーヴンス/John Stevens('40年6月ロンドン生まれ。’94年9月死去)の活動の一端を紹介しつつ「即興演奏を共有する」という問題について述べてみたい。

 スティ-ヴンスについては下記のサイトに詳しく情報が有り、それを若干参考にした。

http://efi.group.shef.ac.uk/mstevens.htm1#discog

 このような研究者がいるということ自体、彼の評価が決して低いものではないことが分かるが、日本での知名度は低い。

 彼の活動範囲は非常に広く、モダンジャズ、フリージャズ、非イディオマティックな即興演奏、作曲に渡る。その演奏形態もソロ、ロックバンド、ビッグバンドでのドラム、小アンサンブルでのパーカッション演奏が主である。コルネットも吹き、ソロではドラムと同時に演奏もしている。また絵画においても、自作のCDのジャケットを作品が幾つかあるし、筆者は見ていないがダンスの組織もしていたようだ。

 

2.集団即興演奏の類型1

 スティーヴンスは、かの有名なThe Spontaneous Music Ensemble(SME)という即興演奏のアンサンブルを結成した人である。自発的な音楽、まさに即興演奏の核心を突いた言葉である。名作「カリョービン」(68年)には、デイヴ・ホランド、ケニー・ホィーラー、デレク・ベイリー、エヴァン・パーカーが参加している。この顔ぶれを見ればいかに充実していたかが分かろう。しかし皆まだ若かった。とにかく、アメリカ生まれのフリージャズの追従ではない何か新しい物が生まれようともがいている、そんな感じの演奏だ。

 そしてこのグループはメンバーをその度に替えながら継続して来た。SMEはスティーヴンスの主たる活動フォームであったといっていいだろう。

 そして一方、彼は大きな編成の集団を結成した。それがスポンテニアスミュージックオーケストラである。つまり彼はより多くの演奏者を集団即興演奏の場に迎え入れ、それによってさらなる音楽を開拓しようとしていたのである。

 ともすれば固定した即興演奏集団には共有された語法、クリシェが生まれ、なれ合い、マンネリ、形式化を誘う。それを避ける為に色々な手段がとられてきた。

 集団即興演奏の場に、より多くの人々を迎え入れるということは、演奏力、技術、集中力の相対的低下を招く。ある集団即興の質が、それに参加した複数の演奏者の能力の最大公約数になるか、最小公倍数になるかの境界といえばいいだろうか。

 すなわち、前者の場合、結局誰もが安易にできるレベルのことだけが繰り返され、緊張感も展開も無い、さらにパターンに収束して、飽きてあるいは力つきて終わるという状況がみられる。狂躁的な盛り上がりは一時的で、音のでかい者がリードする。否応なく他はそれに従っていく。ある種の部族的な儀礼はこれに近い。しかしそこには生活をひとつにする共同体の紐帯がある。かりそめの場における即興に、それは期待できない。

 誰でも参加できて質の高い即興演奏が可能になるような方法と集団を目指す作曲家や音楽的リーダー、ジョン・スティーヴンスはまさしくその人だった。

 ここでの良きリーダーは決して独裁者や族長ではない。むしろ、自らが生成するサウンドによって他の演奏者達をいかに配置するかに長けている監督である。自らが演奏しながらそういうことができるのか。それがジョン・スティーヴンスその人だった。

3. 集団即興の理念

 さて、かつて私は以前、ある誌面で、「ヨーロッパ型の即興演奏は、民主主義と個人の自主性(個人主義)を基盤にしている」と書いた(直接民主主義というべきなのかもしれない)。あくまで英国、欧州の即興シーンを長く観察して来た(憧れて来たともいえる)者の実感である。

 60年代の人権闘争、左翼の台頭、解放闘争のうねりと相まって、音楽そして演奏が単にその内部にとどまるのではないことが要求された。一般の生活者が、武器を取って立ち上がる、あるいはデモやストにおいてシュプレヒコールをするように、即興演奏においては、非プロフェッショナルな人々が武器ならぬ楽器をとり、叫びならぬ声をもって参加する。そういう構図を、革新的作曲家達は夢想した。

 そのような組織的行動としての音楽を提示した代表的存在こそが、私が何度も言及して来た英国の作曲家コーネリアス・カーデュー(1936~1981)である。

 そして、一方で同じ英国において、もっと小さな、そして、より演奏家の欲望に即した、つまりルールに束縛される事の無い自主的な演奏形態のための指導者、それがジョン・スティーヴンスであると位置づけたい。

4.ワークショップ実況検分

 ジョン・スティーヴンスの指導による即興演奏のワークショップを記録した貴重なカセット・テープが有る。これは、ワークショップに参加し、録音してきた竹田賢一氏から借用したものだ。

 ピアニストは含まれず、サックス、弦楽器、打楽器などがほとんどである。ここでは竹田氏の大正琴は特異なサウンドで目立っている。音量は、誰もアンプを用いていないので、楽器固有の音量でしかないため、差が大きい。

 アンプを用いないことは重要だ。これは音響の等身大の性質を現す。

 カセットの録音は、最初からスティーヴンスの語りがすでに始まっている。残念ながら、私はそれを聞き取ることができない。はがゆい思いである。しかし、彼が何度か使う言葉、「サーチ&リフレクト」は、おそらくキーワードではないだろうか。

 カセットの録音から7年して発表された、後述するスポンテニアス・ミュージック・オーケストラのLPに収録された曲のタイトルにも「探索と反映」が登場する。まだスティーヴンスはこの言葉を使っている。これは彼の即興演奏遂行の理念を現しているのではないだろうか。

 さて、おそらくスティーヴンスを中心として円弧状に位置したミュージシャン達は、合図によっていよいよ音を出す。それは並んだ順に、短い音を一瞬出すだけである。持続音ではない。だから次々に多様な音が出て並んで行く。一度出した者は決して自分の番が来るまで出さない。そして前の人が音を出してから自分が出すまでの時間は、各自の判断に依存する。だから妙に間があくときも、すぐ次の音になるときもある。

 これで一回りするとスティーヴンスはまた語る。

 さて、このやり方は色々な意味が有る。自己紹介とも言える。音そのものの紹ではなく、間の取り方までも分かる。そしてこれはクリシェ(手癖)が出ないやり方だ。どんなにジャズイデオムを自家薬籠中のものとしたミュージシャンも、0.5秒もなければそれを発揮できない。自己紹介をしながら、自己主張をさせないような方法ともいえる。しかし、楽器の特性と、意志の強さが出る。サウンドの強さ、大きさは各自まかせだからだ。

 まだ、この一連のサウンドの連なりでは演奏でも音楽でもない。しかしもうすでにここには後述するような最終的な課題も含まれている。

 スティーヴンスはまた指示を出し、短いフレーズを演奏し、次に渡すようにさせる。少し演奏的な印象になる。しかし彼はいきなり途中で止める。そして何事か語りまた、止めたところから開始させる。しかしまた完全に回り切らないうちにとめる。これを何度か繰り返している。このやり方は、各演奏者に、持ち時間の間にどうしてやろうかという準備をさせない効果があるし、いつ止められるか分からないという不安(?)も醸す。つまり予期せぬ対応を意識しつつ、ある流れに存在する自己を確認するだろう。

 そしてスティーヴンスは、今度は一斉に短い音を出させる。まるで今までと逆のことだ。この大音量は、ひとつの総体=アンサンブルである。しかしまたそれまでやってきた各自のサウンドを連ねて行く事、これもまたアンサンブルであう。大きなマッス=音塊としてのアンサンブルのあり方、そして細かい線(円周)としてのアンサンブル。勿論その中間の色々なアンサンブルが考えられる。

 参加者は各自の、そして他者のサウンドを把握しながら、かつその組み合わせを想定できる。組み合わせは同時的にも、継起的にも考えられる。こうして、早くも各自に、そして参加者全体に、アンサンブルの様々な局面が共有できるようになる。しかしこれではまだ十分ではない。

 アンサンブルならばどうか。スティーヴンスはメソッドを用意した。パターンがクリシェに陥らないよう、各自の負担をミニマムにすべく配慮した。すなわち「短い音」だけを、まず出す事。

 「短い音」だけを出す事は、フレーズを作るよりは雑念が生まれない。しかし各自の自由は瞬間の中に生きている。そしてこの短い音によって、考えずにアンサンブルの中にとけ込んで行く事ができる。

 「短い音」の継起的連なりは、音色旋律に似て非なるが、同等に近い。違うとすれば、結局、全体がクラスター化するのが即興演奏の場合顕著である。それでもなお構造は維持される。しかもそれは自主的に。演奏のアウトノミア=自律運動として、アナーキズム、アナルコサンディカリズムとしての民主制として。ワークショップにおける「短い音」による連続は、スティーヴンス自身のコルネットから始まる。そして隣の人間が次の音を出し、さらに次へと順番が回る。このとき、終を決めずに回して行く。これは練習とはいえ、すぐ緊張感を失うだろう。しかし、スティーヴンスは、このサウンドの周回をいきなり止める。そしてまた指示を出して、止めた次から再開する。

 また彼は、大きな音の出る楽器のグループと小さな音の出るグループに分ける。前者をマッチサウンド、後者をショートサウンドとして、これらの組み合わせで音を出す。こうして、同時に多数のサウンドを聞き分ける力が自然に身に付き、次第に短いフレーズで全員が演奏を継起するようになる。

 このアンサンブル内の、ある一人は、全員の奏するサウンドの雲の中である音を探す。そしてそれに反応することができる。あるいは全員の音の塊のなかで自分の位置を把握している。個は全体に溶け込むが、決して個を失う訳ではない。時に合唱曲や声のワークショップでは各自の声が全体に溶け込むことで快感が生まれる。しかしそれは即興演奏のワークショップには求められていない。

 あくまで、スティーヴンスの方法の有用な点は、それが演奏能力に依存しないという事なのだ。

 サウンドだけに集中することは、フレーズを演奏事と対立する。そしてサウンドのみによって、ピッチ(高い/低い)、出現(早い/遅い)、音量(大きい/小さい)、持続(短い/長い)、印象(クリア/くもった)、というそれぞれの要素的軸の組み合わせが、明瞭になる。さらには、もうひとつの要素、すなわち「音を出す/出さない」という意志も重要だろう。

 これが全体が連動するアンサンブルのサウンドを生む。垂れ流しのフレーズや、クリシェによるマンネリ化は回避される。

5.集団即興演奏の類型2

 もし即興演奏、フリーミュージック、フリー・インプロヴィゼイションの特徴として、フレーズやメロディーで示されるようなテーマの欠如があるとすれば、この時点までのワークショップのアンサンブルもそうである。というより、テーマやモチーフなしで演奏が成立するにはどうあればいいか、が問われている。また極めて自己言及的ではあるが、その事自体を追求するのが、このワークショップの狙いのひとつではないだろうか。

 スティーヴンスの方法は巧者にも経験の少ない者にも同等の条件である。この一種のスープから脱出できるかどうかは、各自に任されている訳だ。いずれ、ここでは参加者の技術に依存せず、常に全体が志向されている。そこで言及したいのは、各自が短い音を連ねて行く方法である。

 しかし、その結末は。結局は、停止は?それがまた予定調和的な大団円や消尽やパターン化や減衰、あるいは名人芸のカデンツであるなら意味は無い。少人数ならば、そして気心知れた同士ならば、自然に終わりは見えてしまう。しかし大人数による集団即興演奏の終局は、やはり指導者の才覚が決めてしまうかもしれない。

 スティーヴンスはある即興演奏を共有する方法のひとつを示し、実践した。

6.スポンテニアス・ミュージック・オーケストラ

 ここでそのレコードを聴いてみよう。1975年1月にロンドンで開催された「ミュージック・ナウ」という企画でライヴ録音され、同じくロンドンのA RecordsからA003という番号でリリースされたLP「SME+=SMO」がある(01年EmanemからCDとして再発された)。

 SMOは「スポンテニアス・ミュージック・オーケストラ」の意味で、当然ながらSMEの発展形であると考えてよい。メンバーは当時のロンドン、英国の即興シーンを支えていた、むしろ多くは無名のミュージシャン達21名である。

 Ian Brighton(electric guitar),Roger Smith(acoustic guitar),Nigel Coombes(violin),Robert Carter(violin),Stephen Luscomb(cello),Lindsay Cooper(cello),Jane Robertson(cello),Colin Wood(cello),Marcio Mattos(bass),Angus Fraser(bass),Evan Parker(soprano saxophone),Trevor Watts(soprano saxophone),Bob Turner(soprano saxophone),Robert Calvert(sopranino saxophone),Dave Decobain(alto saxophone),Herman Hauge(alto saxophone),Ye Min(alto saxophone),Martin Mayers(french horn),Peter Drew(piano),Chris Turner(harmonica),そしてJohn Stevensがpercussionとcornetを演奏している。しかし、彼は指揮をしている訳ではない。指揮をとればスポンテニアス=自発的ではなくなってしまうだろう。

 これはある意味「学習発表会」のようなものだ。しかしそれと違うのは、これが結果ではなく、出発点であることが重要だ。このメンバーの中から後に即興演奏のレーベルQuartz!に優れた演奏を残したメンバーが含まれているし、おそらくこの演奏の経験は彼らに、その後も「自発的音楽」としての即興演奏を「集団」で行う事への意味を十分植え付けただろう。それが今、どのような樹に育っているか、寡聞にしてしらないが私は確信している。何故なら私も間接的にその影響を受けて育った者だからだ。

 LPはA面で「+」、B面で「=」というまとまりになっている。そしてA面では「探索と反映」「持続」「持続+」「12+」という4つの小見出しがある。おそらくこれは時間経過に沿ってつけられたパートなのだろう。スティーヴンスはあまり韜晦を好まない人だったようだから、字義通りに解釈してみよう。

 このオーケストラはかなり入念に準備している。そしてある理念を共有していると思われる。

 「探索」は、演奏の現場に居る者にとって極めて重要だ。それは周辺の演奏家が何をしようとしているのか、どのようなサウンドを出しているのかを把握する過程である。そして「反映」はお互いにそれを確認しあう過程。これが同時に起こっていると解釈できる。続いて確認されたサウンドのマッスが、あるレベルで維持される過程=「持続」、そして「+」の意味は「加算」なのか「発展」なのか。次の数字が1と2なのか、12なのか分からない。

 B面は「等号」だけが記されているが、A面よりずっとダイナミックな変化がみられる。しかし全体としては、次第に沸き立つサウンドの入道雲という印象で、その中にエヴァン・パーカーなどの試合巧者はかなり目立った音を出しているのが、雷鳴と稲光が走るようで美しい。そしてこの均衡を保ちながら、次第に収束して行く。

 ここで興味深いのはアンサンブルにハーモニカが加わっていることである。アンサンブルに埋もれてほとんど聞き取れない。しかし、外部には知覚できないくらいの微かな要素が全体を支えるだろう。何故なら、皆がその小さな音を聞き取りながら演奏しているから。これこそあらゆる即興アンサンブルに要求される性質ではないだろうか。それが私の思う「民主主義と個人主義による基盤」でもある。

 ジョン・スティーヴンスはそれを知っていた。

 そして彼は、自分の言葉でそれを要約した。すなわち「サーチ&リフレクト」。周囲を探索し、反応する。これで、あとは自発的(スポンテニアス)に組織化が進んで行くのである。

 「サーチ&リフレクト」は、それまで集団即興演奏の最も基本的なあり方と思われていた「コール&レスポンス」のアンチテーゼとして発想され、実現されていた!

7.エピローグまたはカデンツ

 そして演奏は終わり、音楽は消えてゆく(空中に)。かつてある場所に、聾者の集団即興の驚くべき強度と、その終われない辛さについて書いた。そうだ、演奏とは終わるべきものであり、それによって音楽は成立する。終われない演奏は最悪の事態である。

 持続とは絶えざる差異化であり、強度とは差異のなかにある同一性を指すのであれば、強度は持続である。

 コスモスとは、カオスからノモスが生成して行く場である。すなわち、カオスがアトラクターにより、自己組織化~オートポイエシス~していく情況こそが、ノモスである。しかしこれによって生まれたコスモスは決して安定していない。動的平衡のうちにあり、一瞬の永遠を垣間見た後、アポトーシス(自己溶解)の裡に、またカオスへと帰って行く。これは一種の輪廻であろうか。そしてまたノモスであり、ダルマともいうべきか。

 私の即興演奏観はそこにある。

 

Onnyk  Morioka,2012.Sep.

註:この原稿は、2012年にGモダーンのために書かれたテクストを筆者自身が短く改稿したものです。2014,Mar.