1 | 雨露・URO (1:04:36) |
小森俊明氏によるレヴューです。
川口賢哉:雨露(Chap Chap/2016)
長管地無し延べ尺八奏者の川口賢哉によるソロ・アルバムである。尺八独奏によるアルバムそのものが非常に珍しいと言えるが、ましてやフリー・インプロヴィゼーションによるアルバムとなれば、滅多にお目に掛かれないのではないだろうか?そういう意味でこのアルバムは非常に貴重だろう。
川口賢哉はNYでジャーナリスト、評論家として活動したのち、現在は広島、東京、NYを行き来しながら執筆活動も行うなど、やや異色の尺八奏者である。フリー・インプロヴィゼーションの領域においては、河合孝治、永井清治らとのコラボレーションがよく知られているだろう。このアルバムには、完全フリーで1時間超えという長尺(長管地無し延べ尺八だからと、別にシャレで言っている訳では無い)の1テイクが収められている。70年代フリー・ジャズのシーンにおいては、阿部薫や吉沢元治に象徴されるような日本人アーティストによる長尺フリーが耳目を集めた。この時代は、フリーの成熟(日本的成熟!)や、社会批評の一環としてのある種の倫理的規範(分かりやすいところでは例えば真善美とか)の追求や、高度な哲学性を具えた「自分探し」の手段として、そうした集中度と密度の高い演奏形態が志向されたのだろうと思う。然るに現代は、社会的なモードや要請が当時とは大いに異なる。川口が完全ソロのフリー・インプロを演ったというので、こちらも身構えて聴こうじゃないか、という風にはならない。それに川口は先述したように結構器用な一面を持ち合わせており、もっとリラックスした心持ちで尺八の幽玄の世界を自然体で表出しようとしたのではないだろうか・・と勝手に考えつつ改めてこのアルバムを聴いてみる。そしてたしかに、川口の演奏には気負いみたいなものは存在しないと再認識する。ところで以前、彼があるギャラリーでソロのフリー・インプロを披露した後、筆者に絵から助けられたと語ったことがあった。これは、フリーで鍵盤楽器を演る筆者にとっても大変よく分かるのである。領域横断を自在に行う演奏家にとって、環境は大いなる養分なのだ。このアルバムでは、広島の風景に佇み尺八を吹く演奏者の姿がジャケット写真に使われている。平和記念公園や厳島神社と演奏者の交歓が、聴く者を優しく包み込む。誤解を恐れずに言えば、それは、ジャパン・アズ・ナンバーワンというフレーズに眉を顰めた賢者が生んだ美しい音楽的格闘とは異なる、この不穏な時代の子の美質によるものなのだ。
小森俊明(作曲家/ピアニスト)