CPCD-008     小杉武久&高木元輝:薫的遊無有/Infinite Emanation

2021年12月22日 全国発売。

販売価格¥2,750(税込み)

 

Amazonでも販売しています。

 

 

小杉武久&高木元輝:薫的遊有無(くんてきゆうむう)

 

/Infinite Emanation(CPCD-008)

 

非連続の連続による無常なる時空間の原動化

本アルバムはそのような音楽史上驚くべき出来事に挑んだ二人のプレーヤーによる痕跡である。

 

高知市のAkäsha Productionが主催した「Incantantive Music」と題された小杉武久と高木元輝のデュオ・コンサートを収録。

 

1. Emanation No.1 (21:32)

2. Emanation No.2 (40:55)

 

Takehisa Kosugi/小杉武久(vln,electronics,voice)

Mototeru Takagi/高木元輝(ss,ts)

 

All composed by Takehisa Kosugi/小杉武久&Mototeru Takagi/高木元輝

Recorded Live at Kuntekijinja/薫的神社,Koichi City/高知市,19 Jan,1985

Concert produced by Hiroshi Toda/戸田廣、Yojiro Nagano/長野陽二郎

Recorded by Hiroshi Toda/戸田廣 

Produced by Takeo Suetomi/末冨健夫 Chap Chap Records & Koji Kawai/河合孝治 TPAF

Mastered by Takeo Suetomi

Liner Note :Takeo Suetomi&Koji Kawai

Art work:Ichi Ikeda/池田一

Cover &Liner Photo:Toshio Kuwabara/桑原俊郎、Yojiro Nagano/長野陽二郎、Hiroshi Naruse/成瀬弘,Mami Aoyama/青山マミ、

Tatsuo Minami/南達雄

Design:Koji Kawai/河合孝治

 

薫的神社 

780-0042 高知県高知市洞ヶ島町5-7 

tel 088-872-2651

https://www.kunteki-jinjya.com/

 

AGALTAでも販売中。

 

高木元輝 公式ホームページはこちら

 

撮影:戸田廣  写真提供:長野陽二郎

 

写真提供:Hear sound art library 岡本隆子

 

薫的神社ホームページより

 

Jazz Tokyoのレヴューはこちら

Jazz Tokyoに共同プロデューサー河合孝治さんのCDの紹介文が掲載されています。

#2147 『小杉武久+高木元輝/薫的遊無有〜infinite Emanation』
『Takehisa Kosugi+Mototeru Takagi / infinite Emanation』 

小杉武久と高木元輝の共演は1980年から1999年の間で判明しているだけでも42回はある。パリやニューヨークの他、「ギャラリー・カフェ 伝」、「スペース・フー」、「すとれんじふるうつ」、「キッド・アイラック・ホール」等の小ホールやカフェに混ざって、1985年1月19日、高知市の薫的神社で行われたデュオ・コンサートがこのアルバムである。
主催者の長野陽二郎氏によると、「コンサートにはIncantantive Music というタイトルが付けられましたが、1978 年12 月に間章が逝去して、その後極端にフリーミュージックのテンション、リアリティが下降していたように思います。それはこの界隈のミュージシャン、聞き手双方にも間違い無くあったと思います。そうした状況下ではありましたが、共同主催者の戸田さんと相談して、小杉武久さんと高木元輝さんのライブを企画しました。このコンサートの意味を今思うと、何度も高知に来てもらっていたジャズからのフリーミュージシャンと本来的なリアル・フリーミュージシャンが今コラボレーションしているという興奮があったことを思い出しています。」と当時を振り返っている。
1980年代といえば、「前衛の終焉」、「ポスト・モダン」の到来という言説をよく耳にした時代である。しかし、そんな保守的状況を吹き飛ばすかのように、とてもアクティブなパフォーマンスがここでは展開されている。小杉と高木両名の詳しい足跡についてここでは述べないが、即興、特にフリーインプロビゼーションに関する先駆者であり、改革者であることは疑いのない事実であり、誰もが認めるところである。一般的なジャズのインプロビゼーションならあらかじめ全体の構造が規定され、共有されているが、このアルバムにおける小杉と高木のフリーインプロビゼーションは互いに触発されながら作動のままその都度自己言及的に境界を生成してゆく。小杉は、エレクトロニクス、ヴァイオリン、ヴォイスを使ったかなりアグレッシヴな演奏でエレクトロニクスは大きなバイクの爆音のよう。そこに高木がサックスで切り込んで来る。時にはエレクトロニクスかサックスか分からなくなるような過激な瞬間も聴ける凄みを感じさせる。いずれにしろ「非連続の連続」という厳しいまでの「無常なる時空間の原動化」、これが神社で演奏されたとは驚きと言う他はない。

 

『小杉武久×高木元輝:薫的遊無有』レヴュー

(小森俊明、作曲家/ピアニスト)

 

 

小杉武久と高木元輝のアルバムは少ない。特に小杉武久のアルバムはそうだ。そんな中にあって、この不世出の2人のアーティストによるセッション・アルバムの存在意義はとても大きい。タージ・マハル旅行団により、日本における集団即興演奏の可能性を最初に試み、開いて行った小杉は、即興演奏のほかに作曲も行っていた。しかし、構築性が求められる創造的営為である作曲についても、専門教育機関で学んだり個人的に師について学んだりした経験はなかった。小杉は大学在学中より、同じく実験的作曲家である塩見允枝子とともに「グループ・音楽」のメンバーとして活動していたが、2人とも東京藝術大学音楽学部、しかもその「作曲科」ではなく「楽理科」出身であるという事実は興味深い。

東京藝大の作曲科からは、アカデミックな「エクリチュール派」とでも呼べる作曲家から前衛的な作曲家にいたるまで、さまざまなスタイルの作曲家が世に出ているが、実験的作曲家というのはほとんど世に出ていない。一柳慧も高橋悠治も東京藝大作曲科出身ではないのだ。同じアカデミックな学科でも楽理科の方が、実験的作曲家を輩出する素地があるというのは、興味深い。小杉と高木によるこのアルバムで、四方八方に飛び出すその無遠慮で自由闊達な音響を聴きながら、そんなことを改めて思ったものである。

このアルバムのトラックはEmanation No.1Emanation No.2に分かれる。まさに今述べた音響を示唆するようなタイトルである。始まるや否や、いきなりノイズばかりが続く。高木のサックスがそれに絡むが、楽音が完全にノイズと化すことはなく、ノイズと楽音の組み合わせ、そしてノイズとノイズに近い楽音による組み合わせによる推移が聴かれる。やがてノイズに小杉のヴァイオリンが絡み始める。ヴァイオリンはしばらく完全なソロを持続するが、それに高木がサックスで絡み、デュオとなる。その後やがて、一体化し、離反し、また一体化し・・という物質運動のごときデュオの様相と、そうした様相の中で狭い意味でのフリー・ジャズを超えた音楽的営為がもたらす、不思議な音響的ヴェクトルの一致――音質的性格とかスタイルの一致などではなく――が聴き取れたことに、軽い驚きを覚えた。そして、小杉のヴァイオリンはいつの間にかノイズに取って代わられるのだが、高木の演奏のヴェクトルはそのままである。ここに2人の演奏の音響的差異が生じるのだが、それでもなお、音響的ヴェクトルは一致しているように思われるのだから、不思議なものだ。

ところで、このセッションは神社で行われたとのことである。その点でも貴重な録音である。

 

 

金野吉晃さんのレヴューです。

 

神社という鎮魂施設、音楽という慰霊

  

  薫的神社という特異な地の霊が、昭和期の日本の即興演奏を代表する二人を呼び寄せたのであろうか

 

 ここは祭神が、神道系の神格ではなく、実在した僧侶、薫的和尚であるという から極めて興味深い。当然其処にはそれなりの来歴がある。

  由来によれば、薫的和尚は旧来の領主の威光を守り、かつ藩主の戒名について 正当な主張をしたが、藩はそれを容れず却って投獄し、挙げ句憤死した。

  その人徳を慕い人々は和尚を土地の神として祀り直したということになる。

  昔から日本では憤死、横死した高名の士は悪霊となって為政者に祟りを為すと言われ、天神、菅原道真はその代表であり、強烈な怪異は伝説として有名である。

  薫的和尚を、神格として祀り、同時に封じる為に神社が設けられたと考えておかしくはない。このような仕儀は仏教の守備範囲外と考えるべきなのだろうか。仏道にあった者も自死すれば成仏はできまい。ならば神道の出番というべきか。

  あるいは見方を変えて、薫的神社は、自らの死をもって権力に抗議した闘士を顕彰する場とみるべきだろうか。

  

  さて、小杉武久そして高木元輝という極まる芸能者二人、薫的和尚に呼び寄せられたか、地霊が和尚の為に招聘したか、はたまた自ずと鎮魂に訪れたのか、 如何に考えても面白い。

  

  小杉がこのライヴでヴァイオリン以上に多用しているのは独自のライヴ・エレクトロニクスである。その初期方法である「マノ・ダルマ」や「キャッチ・ウェイヴ」から発展して、一方ではサウンド・インスタレーションを目指し、85 年 当時はもっとダイナミックな反応的音響を操作する方向に向かっている。

  これはタージマハル旅行団の時代には萌芽的だったものを、世界各地でも多くの演奏家、音楽家、舞踏家、パフォーマーとの関係の中で醸成させて来たものだ。特にマース・カニングハム、ジョン・ケージ、とくにデウィッド・チュードアの影響・関係が強いだろう。本ライヴに、私は 1984年のチュードアの作品。「パルサーズ」の影を見る。このアルバムに小杉が参加している意義は大きい。 ここに聴く小杉は、それまでの波動的なサウンドのスタイルを崩していない。 しかし翌年1月に薫的神社で高木とのデュオにおいては、時に耳を聾せんばかりの電磁ノイズに驚く。

  さらに高木元輝、吉沢元治、近藤等則らのジャズ系演奏家、またサウンドパフォーマー鈴木昭男らと即興演奏を繰り返してきたことは、小杉の存在を押上げている。

 

とくに高木とは最もデュオの機会が多かった。彼は既にEEUの結成、デレク・ ベイリーらの非イディオマティック・インプロヴィゼーションへの関心により、 硬派フリージャズ的スタイルとは決別している。楽器もテナーよりは、ソプラノを用いることが多くなり、ジャズ的イディオムは殆ど感じ得ぬほどだ。まさに息のままに飄々と、空間にカリグラフィーを描く。

 

 ここで聴く二人の演奏スタイルは、既に82 年のパリで確立されていたと思える。 違うのは小杉の電子サウンドが遥かに多彩になっていることである。

  このデュオは、ジャズ的インタープレイや、構築的即興とは全く異なるといっていい。これは共演でもコラボもなく、いわばパラタクシスである。

  違う次元の存在が、この三次元世界に展開された現象が音響として記録された。

  彼等は同時に其処にあり、しかもすれ違っている。すれ違っていながら意識されている。路上で行き交う人々の様に、あるいは同じ部屋の中でぶつからぬよう歩き回っている二人。始まりも終わりも無く。

 

  所詮、人は何事も共有できない。共有の幻想を保つだけだ。このような関係は 即興演奏に熟達しなければ可能ではない。ともすれば相互の影響や干渉や止揚を云々しなければならない。だが、それがあればどうだというのだ。

  即興の歴史をみれば、それは共有されたリズムやパターンやモードにおいて共時共感的構築に始まり、次第に個々の演奏者が独立した形で場を共有するに至り、遂には時間的差延のなかで、多重録音、ポストスクリプト的なあり方まで、可能となった(ベイリー、ベニンク以前にドルフィー、トリスターノも試みた。 第一、第二世代の即興演奏家なら一度はしているだろう。ネットを介した即興演奏も稀ではない。蛇足ながらジャコもそういう作品を残している)

  

  小杉と高木は互いに、他にないほど多くの共演機会をもった。高木に言わせれば、他に一緒にやりたいという人がいないというほどの関係であった。彼等は それぞれ、やりたいことを尽くした挙げ句に、何かに惹かれるようにしてその場に来た。

  我々には読み解く事の出来ない事実がここにある。しかしそれが他の誰でもなくこの二人により、他の何処でもなく霊的な必然の場所で生起したという痕跡だけはあるのだ。

(20,DEC.,2021.盛岡)

 

金野 ONNYK 吉晃

 

 

小杉武久&高木元輝:薫的遊有無(くんてきゆうむう)/Infinite Emanation

(CPCD-008)                                       

By Jean-Michel Van Schouwburg

 

 

19851月に高知市で開催され、エッセンシャル・アクティビストの末冨健夫が優れたChap Chap Recordsから出版したコンサート。日本の実験音楽のパイオニアであり、タージ・マハル・トラベラーズのメンバーであり、スティーブ・レイシーの珍しいアルバムにも参加している伝説のバイオリニスト、小杉武久と、富樫雅彦の旅の仲間である阿部薫との、野生のサックス奏者、高木元輝との思いがけない出会い、豊住芳三郎、吉沢元治、加古隆、近藤等則、高柳昌行、デレク・ベイリーのデュオとトリオ、ミルフォード・グレイブスのメディテーション・アマング・アスに参加。この二人は残念ながら姿を消してしまったので、デュオとして一緒に聴けるのはこれが唯一の機会です。コンサートは、小杉がソプラノサックスの従者の甲高いささやきの前で彼のデバイスのポテンショメーターを回すことによって生成された減速した電子バックファイアから始まります。10分後、小杉がピッツでヴァイオリンを、高木が高音域でグリッサンドを弾き、ヴァイオリンを真似しながら2人の会話まで音符を曲げてニュアンスをつけ、未知の揮発性のようなビブラートを使い、電子機器が数回に渡って短く再登場する。加圧エンジン。ソプラノサックスの咬傷は有毒になり、モーターを搭載したざわめきは、高音でタイミングの悪い涙と交互になります。驚きの精神を維持しながら、コイとウサギを結婚させるという、どこかシュールな試みです。20分頃、バイオリニストは、自分の感電した素材で邪魔をしながら、弓で演奏されるモーダルスパイラルを開始します。この牧歌的なヴァイオリンの雰囲気の上で、第 2(Emanation n° 2)40 分以上にわたって 2 人の楽器奏者の間の対話を確立することで始まります。対照的なユーモアと相対的なユーモアを使用した個々の肯定への欲求と相まって、リスニングの感覚で互いに補完する同様のメロディック要素とハーモニー要素を交互に使用します。議事録は緊張と共謀の軌跡をたどりながら同じように過ぎ去り、アイデアはより際立って、辛辣で、角ばった、極端なものになっていきます。彼らのやり取り、気晴らし、主張には劇的なクレッシェンドの感覚があり、それが彼らの音楽を本当に際立たせています。どの楽器がこれらの熱狂的な高揚感、これらの熱狂的なオスティナート、これらのホイッスル、またはこのおいしいおしゃべりを生み出すかを特定することは時々困難です.リングを指す。それは少し極端で、乱暴に構造化されておらず、完全に即興です。少なくとも、彼らが完全におどけた状態になるまで、それは彼らが与える印象です - 星間 (または驚異的な) 未知の世界に永久に突入する前に、甘い狂気のように錯乱します. ソプラノサックスのマウスピースの耳障りな音の響きで、高木は魅力的になる。持続的な努力を犠牲にして得られた特定の音やオスティナートを再利用する微妙な能力は、パフォーマンスのさらに下にあり、ステージを狂気の劇場に変えます. 日本における急進的なインプロヴィゼーションの発展に関する非常に優れたドキュメントであり、暴力的なハードフリーで確立された参照のマニアから逃れています。 

 

Concert organisé en janvier 1985 à Koichi City et publié par l’incontournable activiste Takeo Suetomi sur son excellent label Chap-Chap. Rencontre improbable du légendaire violoniste Takehisa Kosugi, pionnier de la musique expérimentale au Japon et membre des Taj Mahal Travellers (et qui figure sur un album rare de Steve Lacy) avec le sauvage saxophoniste Mototeru Takagi, compagnon de route des Masahiko Togashi, Kaoru Abe, Sabu Toyozumi, Motoharu Yoshizawa,Takashi Kako, Toshinori Kondo et Jojo Takyanagi et participant aux Duos et Trios de Derek Bailey et Meditation Among Us de Milford Graves. Ces deux artistes ont disparu, malheureusement, et c'est donc l'unique occasion de les entendre ensemble en duo. Le concert commence avec une pétarade électronique ralentie et produite par Kosugi en tournant le potentiomètre de son appareil face aux sussurements aigus de son acolyte au sax soprano. Après la dixième minute, Kosugi joue du violon en pizz et Takagi joue en glissandi dans le registre aigu en imitant le violon jusqu’à ce que les deux dialoguent tout en nuances en faisant plier les notes, usant du vibrato comme des volatiles inconnus, l’appareil électronique resurgissant brièvement à plusieurs moments comme un moteur mis sous pression. Les morsures du sax soprano se faisant vénéneuses, alors que les bruissements motorisés alternent avec des déchirements suraigus et intempestifs. C’est une tentative un peu surréaliste de marier la carpe et le lapin tout en maintenant un esprit de surprise. Vers la minute 20 , le violoniste s’élance dans des spirales modales jouée à l’archet tout en perturbant avec son propre matériel électrocuté. C’est sur cette ambiance de violon pastoral que commence la deuxième partie (Emanation n° 2) pour plus de quarante minutes en établissant le dialogue entre les deux instrumentistes, leurs deux instruments se mariant aisément et de manière intéressante tout en faisant évoluer l’improvisation collective en se relançant alternativement avec des éléments mélodiques et harmoniques similaires qui se complètent avec un sens de l’écoute doublé d’une volonté d’affirmation individuelle usant de contrastes et d’un relatif humour. Les minutes s’écoulent sans se ressembler dans une trajectoire tendue et complice à la fois, les idées devenant plus marquées, mordantes, anguleuses et extrêmes. Il y a un sens du crescendo dramatique dans leurs échanges, leurs diversions et leurs insistances, cela faisant que leur musique s’impose véritablement. On a parfois du mal à identifier lequel des instruments produit ces aigus endiablés, ces ostinatos délirants, ces sifflements ou ce musardage délicieux, car, en fait, petit à petit, la communications entre les deux improvisateurs joue à plein et que le questionnement imprévisible pointe son nez. C’est un peu extrême, follement déstructuré, et tout à fait improvisé. Du moins, c’est l’impression qu’ils donnent, jusqu’à devenir complètement zinzin – délirant genre folie douce avant de s’élancer pour de bon dans l’inconnu intersidéral (ou sidérant). À force d’imprécations stridentes dans le bec du sax soprano, Takagi en devient fascinant. Une aptitude subtile pour recycler certaines sonorités ou ostinatos obtenus au prix d’efforts soutenus, plus loin dans le fil de la performance transformant la scène en théâtre de la folie. Un très bon document sur les développements de l’improvisation radicale au Japon qui échappe à la manie du hard-free violent et aux références établies.