1 Apocalypse (19:59)
2 Le piano pour lui-meme (28:23)
Masafumi(Rio)Oda
produced by Koji Kawai
co-producer Takeo Suetomi
\2500(税込み)
"Synthesized, then desynthesized."無理やり訳せば、"統合され、そして解体され"とでもなろうか。解体されたものは別様のアレンジメントとして再統合されうるであろう。かような一種の生成運動そのものの原理が一つの統一であるが、私はそれを永遠に解体したいのである。
電子音楽。ノイズ系。この手を聴くと筆者はヤニス・クセナキスの「ヒビキ・ハナ・マ」の制作に関わった思い出が脳を過ぎる。音質は圧倒的に勝ち、である。すでに音源からしてデジタルであり、クセナキス時代とは違う。今、クセナキスが、手を出したら、どんな手を出すか。2トラックのピアノの音源に伴う響きは、身震いする。ピアノの発する音源から奇数波だけ取り出した感触のサウンドは、私にとっては虹だ。
高音質録音だけに、特筆盤である。
Jazz Tokyo 及川公生氏 レヴュー
小森俊明氏によるレヴューです。
Masafumi Rio Oda: Synthesized, then desynthesized.
(Chap Chap Records/2019)
バブル絶頂期に生まれた若手メディア・アーティストにして哲学者でもある織田理史(理央)の1stアルバムである。織田はタージ・マハル旅行団の流れを汲むフリー・インプロヴィゼーション・ユニット「空観無為」のメンバーでもあり、近年の意欲的な活動の結果としての海外電子音楽祭における入選歴も持つ。そして何より、「芸術音楽」(筆者はこの用語をあまり好まないので、普段から仏語で“musique savante”などと記してお茶を濁している)の領域にあって哲学用語や哲学的言辞をアナロジカルに用いる―そもアナロジーを用いることの蓋然性を検証することは困難である―作曲家が散見されるなか、哲学研究の当事者としてアートと哲学の関係を出来得る限り客観的に検証可能なレヴェルで追求しようと試みてもいる、稀有なアーティストでもある。
それにしてもこのアルバム・タイトルは両義性を含んでいて面白いものだ。振り返ってみれば、どんな種類のものであるにせよ、音素材をsynthesizeすることに執心して来た電子音楽家は多かれど、その逆ヴェクトルを構想したひとびとは珍しいのではないか。まずこのアルバムの1曲目、“Apocalypse”(『黙示録』)は筆者を大変驚かせた。それは音源として利用されているブルックナーの交響曲第8番のメロディーが部分的であるにせよ想像以上に明確に刻印されているからではない。カオティックな音響とせめぎ合うメロディーが表出力を臆面もなく曝け出すからである。それゆえに、『2001年宇宙の旅』的音響世界(喩えが陳腐すぎて申し訳ない)の鮮烈な印象は副次的とならざるを得ない。ドゥルーズの『差異と反復』の章題に由来する2曲目の“Le piano pour lui-meme”は逆に、ソリッドかつ「現代音楽」的なソノリティーとエッジを持ったピアノの音と、ほとんど終始音楽外的な想像力に誘わない電子音響(ピアノの音源をモデュレートさせたもの)から成るアセティックな楽曲である。ここには筆者がよく知る織田が居る。とは言え、優れた表現者であるほど、その裡に異質な要素を持ち合わせており、時には両極に引き裂かれているものである。今後の織田の引き裂かれとその音楽的解決を期待しよう。 小森俊明(作曲家/ピアニスト)