豊住芳三郎/Sabu Toyozumi&Mats Gustafsson:北斎/HOKUSAI      (NBCD-134/NBLP-139)

2018年6月の千葉市稲毛のJazz Spot CANDYでの、豊住芳三郎とマツ・グスタフソンのデュオ・ライヴを収録。

 

Sabu Toyozumi  豊住芳三郎  - drums
Mats Gustafsson - baritone saxophone,  fluteophone, flute

 

CD

1. Sunflower  10:45
2. Woman with a Cat
10:02
3. Manga by Hokusai (Gustafsson solo)   8:11
4. Red View of Mount Fuji (Toyozumi solo) 
15:28
5. For Ever-Advancing Artistry
20:48

 LP

Side A
SUNFLOWER
WOMAN WITH A CAT

Side B
FOR EVER - ADVANCING ARTISTRY

  • All music improvised and composed by Sabu Toyozumi and Mats Gustafsson
  • Recorded live on 11th and 12th June, 2018 at Jazz Spot Candy, Chiba, Japan by Kunimitsu Tsuburai / 粒来国充
  • Concert produced by Miyoko Hayashi / 林美葉子Jazz Spot Candy
  • Mastered by Arūnas Zujus at MAMAstudios
  • Front cover photos by Miyoko Hayashi and Kunimitsu Tsuburai
  • Design by Oskaras Anosovas
  • Produced by Takeo Suetomi 末冨健夫and Danas Mikailionis

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撮影:粒来国充/Kunimitsu Tsuburai

 

 

Sabu Toyozumi&Mats Gustafsson:北斎/HOKUSAI (No Business/2018)

 

「北斎は両手で描くだろう」

 

私事で恐縮だがサブに比べて、グスタフソンの演奏を多く聴いて来たとは言えない。

多くの評者、リスナーはグスタフソンのパワフル、テクニカルな面を評価しているようだ。

しかし私が強く感じるのは、このプレイヤーの持つ独自の「間」の感覚だ。それはこのアルバムでもそうだが、91年のパウル・ローフェンスとのデュオ”NOTHING TO READ”を聴いたときはっとさせられたことだ。

この「間」は、ともすれば強烈さだけが印象づけられる彼の、垣間見える本質ではないだろうか。

 

このアルバムに葛飾北斎の名を付けたのがどちらの案か、あるいは示唆した存在があったか知らない。私がこのアルバムを聴いて日本画を、いやそれよりも水墨画を想起したのはタイトルの所為ではない。「間」の感覚である。

日本の絵画の特徴を、昭和初期の洋画家小出楢重が書いているのだが、「実物に即した写実というなら西洋絵画には敵わないが、自然のありのまま、それを情緒として受け取るに東洋絵画は長けている」と言う。西洋絵画には科学があり、実存性がある。

東洋絵画は、時空を超越した表現をものともしない。だから日本では時間経過がひと繋がりになった絵巻物やら、屋根を平気で取払って室内を俯瞰する構図が何の不思議も無く、あの世からやってくる仏達を描く事も厭わない。

小出に言わせれば「東洋画は極楽、西洋画は地獄」とまでなる。

それは極論かもしれないし、私が、それは音楽の東西の差異にも通じるなんて言えば戯論になるだろうか。

即興演奏において西洋と東洋の違い、あるいは地域性を論じるのは面白いし、または伝統音楽の即興と、ジャズ以降のそれを考えるのも有意義ではあるのだが。

 

いやそれはともかく、私は、グスタフソンの演奏に、水墨画の空間性、すなわち「間」を見たのだ。

間と沈黙は違う。間は意味と潜在的生気に満ちた、<間主観性>とも言えよう。沈黙はそれに対して、個の内省ではないか。

グスタフソンの「間」は、次の瞬間に炸裂するであろう、あの爆音を待ち受けているのだ。

彼は、次の一撃を打ち込む間合いをはかって、細かい足さばきもしているではないか。

一方そんなことは知るものかとばかりに、墨をたっぷり含んだ筆を振り回すのは、サブである。誰がどうやろうと、世界の何処でも俺は俺だ。サブはこの宇宙に一人しか存在しないのだ。

北斎が、動物、人物の瞬間的な姿態、運動を捉えて簡潔に描き切る天才であったように、二本のスティックで、空間に自在な振動を与え、丁々発止と相方のサウンドを受け止め、先回りし、さらりとかわし、「後の先」とばかりにやりかえし、くんずほぐれつ、こけつまろびつ、ここかと思えばまたあちら、死にたい奴からかかって来い、二天一流の継承者はこの俺だとも。

なんだ、サブは画狂人北斎じゃない、宮本武蔵であったか。そうだ、武蔵も画家としては超一流だった。私は「打狂人サブ」の中に、遊興者北斎と、求道者武蔵を見た!

 

サブと佐藤允彦のデュオアルバム”THE AIKI”のライナーに私は書いた。

<「合気」とは、古来、戦いにおいて動きが結滞することだが、文字通りに考えれば、存在の生気の流れが相和することとも解せる。そして「道」はタオである。>

このアルバムの共演は、「合気」でも「道」でもなく、二人の達人が組んで描いた一幅の障壁画なのである。

その襖を用意したのは誰か。末冨健夫である。また、それを広げてみせたのは誰か。NO BUISINESSである。

例え、いかに優れた作品、記録があったとしても、知られずに埋もれればそれまでだ。ともすればリスナーは演奏自体にだけ拘泥するが、重要なのは演奏の場を提供し。録音し、リリースする一連のプロセスであることも忘れてはいけない。

 

(金野ONNYK 吉晃)